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戦国時代の職人の礼装は?

戦国時代の職人の礼装を教えてください。
絵師や仏師などの職人が、依頼主である上級武士や公家など貴人に会うとき、どのような服装をしていたのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2015-03-25 13:35:53

QNo.8942609

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

No.2です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
いわゆる御用絵師である狩野一族についてお調べの様ですが、始祖の狩野正信が室町時代中期の人で、すでに武家が政権の座にあって、絵師とはいえども武家と同様の扱いを受けていたようです。
狩野正信など個人別に検索されれば、どのような処遇を受けていたかが分かります
となると、僧侶や医師とは違い正式な席には武家に準じた装束を着用していたかと思います。
となると直垂かそれに類似のものと考えて差し支えはないかと思います。
御所内でも公家ではありませんので直垂であれば充分通用しました。
ただ、直衣は無理でしょう。
直衣クラスになりますと公家でも許可が必要でした。
狩衣での参内は公家でも禁じられていました。
まぁ~普段着というとこですかね。
御所は有職故実の喧しい世界ですので平安時代と左程変わらなかったとお考えください。
信長はいざ知らず、秀吉は関白でしたので、城中の行事では御所に準じた装束を用いさせていたかと思います。
武家特有の裃などが定着するのは江戸時代以降です。

直衣、直垂など御所内での服装は下記のサイトをご覧下さい。
ホームページの各項目をクリックすれば内容に進むことができます。
着用できる身分や状況の説明も図もあります。

装束の知識と着方
www.kariginu.jp/kikata/

投稿日時 - 2015-03-30 17:56:21

お礼

追加のご回答ありがとうございます!
なるほど、武家に準じた装束ですか。確かに、絵師が直衣や狩衣を着てるのは変に思います。直垂ならしっくりきます。直衣は公家でも許可が必要だったのですね。
大御所の作家先生の小説の中で狩野永徳が裃を着ていました。案外いいかげんなものですね(笑)
参考URLもヒントがつまっていてとても勉強になります、ありがとうございます!

投稿日時 - 2015-03-31 14:21:07

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回答(5)

ANo.5

絵には関心がありますが、絵師には詳しくないので、
狩野派を見てみました。
狩野派の初期は謎が多いとのこと。
WIKIによれば、狩野永徳は少年時代、祖父の
狩野法眼正信に連れられて、足利将軍にお目通りを
したとのこと。
子供にも目通りをゆるしたので、絵師の地位は高かった
ことを知りました。
法眼という僧位を得ていたので、幕府御用絵師は
地位の高い画僧の扱いと思われます。
成人後貰った永徳という法号で、法眼永徳と名乗った
ことでもわかります。
狩野氏は武士の出なので、武士扱いと思いましたが
違うようです。

雪舟も武士の出ですが、こちらは僧籍に入ったので
画僧で当然僧衣です。
雪舟は法号でなく、雅号で自称です。

狩野派の先祖が同様であったかは知りませんが、
永徳が僧衣であった可能性は高いでしょう。

江戸時代になると制約がはずれ宮廷工芸から遠く
なったということです。

応挙の自画像から見ると、肩衣、小袖、袴のようで
絵師は完全な武家スタイルです。
著名作家はここらあたりを参考にしたのでしょう。

ところで仏師の方では、戦国~江戸初期にかけて
康正という名仏師がをり、僧として最上位の法印
にまでなりました。(絵師の上)
その後目立たないのは、仏像なので制約から
逃れにくかったためでしょうか。

投稿日時 - 2015-04-01 16:50:22

お礼

狩野派のことを調べていただきありがとうございます。
なるほど僧衣ですか、それは思いつきませんでした。永徳がいつ法号を授かったのかが不明ですが(大坂城の障壁画を描いている頃にはすでに受戒していたようですが)法号を名乗ってからは僧衣だったかもしれませんね。そういえば伝木村香雪筆、狩野山楽像も僧衣ですね。
ご回答ありがとうございました!

投稿日時 - 2015-04-02 15:41:06

ANo.3

No.1 です。説明不足でした。
宮大工の棟梁のような朝廷の仕事を務める職人(工人)
の頭は官職について居り初位上の位を持ち、礼法に従い
正式な礼装で貴人に会うこともできました。
しかし一般の職人はそういう必要はありませんでした。
室町末期から戦国時代にかけ、朝廷、幕府が衰えると
各地へ散って行き、武士や庶民の世界に入り慣行も失われ、
No.2 の答えのようになったと思います。
工芸品の工人や画師(えし)画工も同様です。
仏師は僧ですから僧位により礼装が決まっていました。
高い僧位の人もいたといいますが、戦国時代は低かった
でしょう。
戦国時代の一般絵師の身分はよくわかりません。大内氏
のような大大名のお抱え絵師は高かったかも知れません。
料理人では四條家の本膳の流儀が各地に伝わるなど一般に
公家の流れを汲んだ職人技や礼法、作法が広がったと
思います。

投稿日時 - 2015-03-29 20:51:35

お礼

補足のご回答ありがとうございます。
職人と一口にいっても身分はさまざまなのですね。そこまで想像が及びませんでした。
当方、狩野永徳とその周辺を調べております。永徳は朝廷にも出入りする工房の棟梁でしたから、そのときは礼装だったかもしれませんね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-03-30 15:33:28

鳥烏帽子、胴服、袴を着用という感じでしょう。
どのような状況を想定されておられるのか分かりませんが、そもそも地位が高くなればなるほど庶民とは直接口をきくようなことはありませんでした。
家臣が取り次ぎました。
戦国時代という物騒な時代に軽率な行動は命に関わります。
つまり、職人と依頼主の間に仰々しい仕来り作法などというものがありませんでした。
要は身ぎれいにして不快感を与えなければ充分でした。
こんなことが問題になるのは平和で閑な時代です。
服装が庶民にまで形式化するのは平和な江戸時代以降です。

衣料品というのは明治時代に工業生産されるまでは貴重品でした。
江戸時代でも、かけソバが一杯16文に対して浴衣は一着400文しました。
庶民が何着も持っているようなものではありませんでした。
江戸時代でも1着の着物に寒くなれば裏を縫い付け更に寒くなれば間に綿を入れました。
暖かくなるにつれてこの逆をやりました。
つまり表は一年中同じということです。
一枚の状態がひとえ、裏を付けたのがあわせです。
現在もこの用語は残っています。

胴服というのは現在の羽織の原型で室町時代ごろから普及したものです。
元々は防寒用でしたが、脱いだり着たりに便利でしたので、現在の羽織と同じような使われ方がしていました

戦国時代ごろまでは烏帽子という物を身分を問わず被っていました。
これは単なる日除けではなく、髷のカバーです。
被ると言いましても現在の帽子のようにただ被っていた訳ではありません。
内側に紐がついていて髷に結びつけて止めていました。
いくら動いても脱げるようなことはありませんでした。
古い形の源氏物語絵巻などにある大きなものは被っただけではすぐ脱げてしまいます。
紐で結ぶのが面倒なので、よこから棒を刺して髷に止める形式のものがありました。
デカイとじゃまですから、どんどん小さくなっていきました。
この小さなものが鳥烏帽子です。
まぁ~鳥が止まっているように見えたからかもしれません。
仕事中でも髷が汚れないように着用していました。
この烏帽子のデザインで身分の上下が識別できました。
江戸時代にも身分ごとにデザインが決められていました。

袴は着物の裾が邪魔ですから着用されていました。
用途に応じてデザインされていました。
参考
春日権現霊験記繪巻 - 奈良地域関連資料 - 奈良女子大学
mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/
巻の一をクリックして図の左側の矢印ヲクリックすれば、鎌倉時代の職人の様子がわかります。

職人尽絵貼りまぜ屏風
www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/rekisihp/syoku01.htm
各絵をクリックしれば室町時代以降の庶民の服装がわかります。

冠と烏帽子
www.kariginu.jp/kikata/2-2.htm
烏帽子の構造デザインが分かります


桐矢襖文辻ヶ花染胴服 - e国宝
www.emuseum.jp/detail/101138/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s...

以上いずれも絵や写真がありますのでご覧下さい。

蛇足
室町時代以降江戸時代初期までは、公家は貧乏のどん底でした
室町時代の末期には、御所の塀が崩れて、天皇が食事している様子が通りから見えました。

投稿日時 - 2015-03-28 12:35:18

お礼

ご回答ありがとうございます。

説明不足で申し訳ありません、戦国時代の絵師狩野永徳とその周辺のことを調べております。
衣料品が明治になるまでそんなに高価なものだったとは知りませんでした。永徳は御所にも絵を描く工房の棟梁でしたから直衣などを持っていたかもしれませんが、合理性を重んじる織田信長に会うときなどは鳥烏帽子、胴服、袴だったのかな、と想像がふくらみました。

ご回答は大変読み応えと説得力がありました。参考URLもどれも資料性が高く、とても参考になりました。ありがとうございます!

投稿日時 - 2015-03-30 15:32:38

ANo.1

室町時代は大工の棟梁などの職人の礼装は
狩衣、烏帽子でしたから、戦国時代も
これに準じたと思います。

狩衣は元は狩猟用の服で、運動し易く、
公家の略服として使われたものです。

投稿日時 - 2015-03-25 17:50:56

お礼

狩衣、烏帽子ですか。意外ですね。公家が着ているイメージが強いです。
ご回答ありがとうございました!

投稿日時 - 2015-03-26 13:18:08

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