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もっともっと自由に。もっともっともっと自由に!

 (1) マルクスは まちがっている。青年ヘーゲル派の哲学をとり上げて批判するとき

   (あ) 人間はこれまでいつも自分自身について すなわち
  自分がなんであるか またはなんであるべきかについて ま
  ちがった観念をいだいてきた。
   神 規範的人間などについてのかれらの観念にしたがって 
  かれらはかれらの関係をととのえてきた。・・・
   (マルクス;エンゲルス:『ドイツ・イデオロギー』 〈序文〉 古在由重訳)
 
 のではない とただちに言っているべきであった。

 (2) もし こうした歴史的な人間を その歴史的であるということにおいて批難せねばならないとしたなら そこに まちがいは つねにある と言って 批評することから始めていなければならなかった。

    (い) 人間はこれまでいつも自分の生活態度について 
   すなわち自分がなんで生活するか またはなんで生きるか
   について 神 規範的人間などについての観念によって説
   明し 自分たちの関係をととのえようと すなわち自己をそ
   れぞれ弁明しようと してきた。

 のであると ただちに説明しかえしているべきであった。

 (3) 《観念がまちがっていた》のではない。または 観念がたとえまちがっていたとしても そのことじたいを責めるには及ばない。責めても不十分である。説明の内容 弁明のための観念と理論とは もしいやしくも それによって自分たちの関係をととのえ得てきたのなら 人間の合理性をどこかに持っているであろうし 一般にそれとして妥当なものなのである。

 (4) われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。弁明のための根拠 すなわち 生活態度また生きる理由と目的 これらが まちがっているのである。

 (5) しかも 歴史経験的であるという人間の条件の限りでは まちがっていても 経験妥当なものでありえた。まちがった観念を持った人を 何が何でも 断頭台に送ればよいというわけにはいかない。
 [・・・]


             *

 
 (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。

 (7) クリスマスツリーのカザリがおのれの《固有の時》にふさわしくないとなれば すみやかにこれを取り除けばよい。樅の木だけになればよい。

 (8) われわれは なぜおまえは そこにおまえとして居るのか? などと誰からも検問される謂われはない。

 (9) 公理としての自由存在に立つべし。

 (10) いっさいの宗教のオシエで着飾ることから自由になろう。

 (11) もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。



 これを問います。

投稿日時 - 2015-07-14 10:31:53

QNo.9012026

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 再度の「お礼コメント」をありがとうございました。幾分それて長くなりますが、以下のとおりお答えします。

 ★ マルクスは[・・・]「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか?
>☆ その《欠けているところ》を補って全体観に立てる理論および実践としての思想を打ち出せば 《弁明は要らない》と言おうとしたわけだと思います。つまり 《真理》に対応する理論内容を表現し得たならよいはずだという前提に立っているものと思われます。
>確かにこの《世界観を提出するという欲望から自由に成ると言うなら 世界観の提出じたいを控える》ことではないか? それでは《何も始まらない》ではないか? という批判がただちに出されるのでしょうけれど そのときには次のような構図になるはずです。
>すなわち 片や《出来るだけ精緻な世界観を持って実践をすすめる人間たちとその社会》という像が捉えられ 片や《そもそもいっさいの世界観から自由な人間 どうしが 試行錯誤で模索しつつ社会を形成して行くという世界》なる像とです。
⇒このあたり、同義反復の堂々巡りのようにも感じられますが、分かるような気もするところはあります。
 つまり、キリストやデカルトがやったような、「基本へ戻る」ことや「単純化する」こと、と原理的には似たような考えのように感じます。それは、老荘思想の「無為自然」、ロックの「自然法」、ルソーの「自然へ帰れ」などとも通底するところがあるかも知れません。私の場合はこれを「前方脱出」と呼んでいます。

 我田引水ですみませんが、以下で前方脱出を可能とする条件について、イエスやデカルトの所業を参照しながら考えてみたいと思います。
 まず、「単純化」。イエスの、「必要なことは信じることのみ、信じる者は救われる」といった言行や、デカルトの、例えば、物心二元論などにうかがえるように、両者とも単純化を行った。後者の場合、「普遍数学」や「誇張懐疑」などに象徴されるように、その方法論の全体を単純化の思想が貫いている。もちろん、両者とも、時代の要請やその背後にある状況を止揚し、吸収した上での単純化であったに違いない。それゆえにこそ、時の人々の苦悩に対する解答になり得たのではないだろうか。その証拠に、イエスは「信仰のあり方を人々の口に合うように調理」し、デカルトは「思想を合理性に還元」して、「文化活動の焦点を当面の現実に求めた」のであった。
 前方脱出のための第2の条件として考え得るのは、ある種の「飛躍」である(図中では、時代潮流と脱出路をつなぐ縦の点線でそれを示した)。一見、「肩透かし」を食らわせているように見えるが、問題となっている事柄の直接的な改革を訴えるのではなく、それをいわば「脱構築」し、本質部分を抽出して取り込みつつ、より高い次元から捉え直すという姿勢であろう。イエスは、人々の自己喪失や「社会化」の原因になった律法の錯綜とか文化的過剰繁茂を整理したり再構成したりして問題の解消を図ったのではない。デカルトも、もはや信念の役を果たさなくなったカトリックの教義に変更を迫る姿勢など微塵も示さなかった(示せなかった?)。かといって、無視もしなかった。ただ、おそらく気乗りしなかったであろう神の存在証明(本体論的証明)は、その詭弁性ゆえ、後年カントによって完膚なきまでに論破されることとはなったが。(「学問的衝動」ではなく「神への慮り」から出た行為だったので、デカルトとしても、詭弁性は承知の上だったのかも知れない、と筆者は推測する)。ともあれ、両者とも、目前の問題について、当事者に改革を迫ることも、それを等閑視することもせず、それに対する回答を含み込むように配慮しつつ、独自の信仰体系・理論体系を創造した、と言えよう。
 こうして創出された体系が、疎漏なく首尾一貫した組織として、いわば「自己完結」していること、これが前方脱出のための第3の、総括的条件とすることができる。もちろんその枠組みの中には、上で見たように、当面する問題への解も含まれなければならない。体制のための御用学や反御用学などであっては、おそらく自己完結はおぼつかない。体制というゴンドラの中だけでなく、それを支えるケーブルや鉄柱やその土台…等々のことも視野に入れる、つまり、より大きな「普遍妥当性」を求める姿勢が盛り込まれなければなるまい。ということは、そこには、必ずや、新しい世界観・社会観・人間観が含まれているはずである。現実を「脱構築」し、それと、自己の暖めた理想体系とをそれぞれテーゼ・アンチテーゼと見立てて、弁証法的に止揚するような作業が求められることであろう。

 過当単純化であるとの謗りを受けるかも知れないが、これまでの「歴史的危機」において、後退することで現実を否定し、それを取り替えようとした者(後方脱出組)もいたし、全体が病んでいるのに、局所の手術で解決しようとした者(側面脱出組)もいた。しかし、いずれも「脱出」は不可能だった。結局、頼りにできるのは前方脱出組しかいないのである。ところで、「脱構築」は「破壊」とは違う。再構築を意識しつつ解体し、本質部分を損なわないように抽出し、単純化し、新しい構築物の素材として取り込む…。おそらく、このような手順を経て始めて、パラダイムシフトをも可能とするような、第一級の枠組みが創生されるのであろう。「価値観の混乱と渡りに瀕する」現代、すなわち、現代的危機のさなかにあって、そのような知の枠組みが一刻も早く出現することを期待したいものである。

 以上、再々伸まで。

投稿日時 - 2015-07-16 23:50:17

お礼

 なかい702さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 マルクスを出汁にしたからには覚悟していなければならなかったのでしょうが ことは大ごとになって来ましたね。

 世界史ぜんぶを扱わなくちゃならないぢゃないですか。

 わたしは 殊に自然科学はカラキシですから 過去の歴史に見る《パラダイム・シフト》といった主題については 書けません。


 

 言えると思われることは なかい702さんは ただし今のところ解説者の立ち場でおっしゃっている。

 言いかえると わたしは これっぽっちも悪びれずに手前味噌も醤油も――あたらしいパラダイムを提出していますよと言い張って――ひけらかしています。




 そうですね。《前方脱出・後方脱出・側面脱出》は おもしろかったですが このわたしめは そのパラダイムをも《逸脱》する異端分子でありますね。

 《脱構築》の話を聞いたとき・そして今も 当ったり前ではないかと思いました。わたしは すでに飛んでしまっています。イエスが出たので言うとすると・つまり自己弁護をするとしますと すでに――いつ・どのようにかは定かではないかたちで――言わばサルト・モルターレをやっちゃった。のかも分かりません。

 第二の条件として挙げられた《飛躍》の問題ですね。

 そしてその前に確かにおっしゃるように ものごとの《単純化》もありそれは《自然本性だけの人間という姿勢》の問題でもある。こうも考えます。

 自然本性は 身と心とであり 心が精神であり そこには《記憶‐知解‐意志》という三つの行為能力がありますから それは必ずしもルウソ関係のソヴァージュ論ではなく 《基本に戻ること》が問題になっていると これまた同じく思います。

 人間存在の《基本》とは この自然本性の内のなかんづく《中軸としての意志行為》にあるかと考えています。
 意志自由であり 答責性と一体となった自由 これが 基本中の基本であると考えます。

 この《説明責任を愛する自由》 これが 第三の条件として挙げておられる《自己の完結性》ではないかと考えます。もっと簡単に言えば 《わたしがわたしであること》であり 生きることは動態でありそこでは あやまつは人の常ですから 《〈わたしがわたしである〉わたしが あやまちを侵したときには常にはっと気づき我れに還るというようにして なお自然本性としてのわたしに戻りつつ わたしする》。

 《わたしがわたしする》 これで自己は完結しているとすら考えます。その《わたし》が 自由意志のもとにつねに答責性を帯び説明責任を果たすわけですから。







 さて この《前方脱出》策は わたしは《正面突破》だと思っています。

 キリストと呼ばれたイエスがやったことは いま見て来たような人間をつくることです。
 すでに生まれつきそなわった自然本性を開花させることです。

 少々なかいさんのご議論とは・もしくは世間の常識とは違ったことを述べますが いわゆる《贖罪》としての仕事は イエスにとっておまけのようなものです。(だんだん断定調に成って来ましたが)。

 いわゆる原罪は 創世記でエワとアダムとに蛇がささやいたという話が出てしまったので この蛇の処理としてイエスは《人類の罪の根源を背負い これをその命でつぐなった》と言わざるを得なかった。そういう説明をして失楽園の物語を閉じざるを得なかった。

 だって アダムらが神の禁止命令に背いたというのは ただただ人間の自由意志のことを物語にして説明したに過ぎません。エデンの園を追われてやっと その姿が 自然本性のヒトであることになった。(おのれの心にさえ背く自由度を持った自由意志を中軸とする自然本性)。


 イエスがやったことは ユダヤ人のための神を 外に開いて普遍神として指し示したことです。
 エレミヤ書(31:31以降)には その《つとめ》を示すあたらしい契約として二点がしるされています。(そのことは 新約でへブル書(8章)に取り上げられています)。

 ヤハヱーなる神が そこではあたかも自己揚棄をおこないます。

 あたらしい契約では 《もう人びとの罪をおぼえない。わすれる。問わない・咎めない》。これは 先ほどの《贖罪》論とかかわっているかと思います。

 そして 《もう人びとは神を知れと言っておしえることはない》。ヤハヱーはユダヤ人の神である自己を開いて普遍神となって 自己を棄てる。すなわち モーセの律法から自由な人間――もともとの自然本性なるヒト――を指し示した。

 そして このエレミヤの預言を イエスは 十字架上に去って行くことによって成就したと言われます。

 人間にとって神は ひとつ。《非知》であるゆえに 《隠れたる神》。去って行ったイエスのごとく 神は――普遍神は―― その後ろ姿しか見えない。

 この《わたし》に立つなら 人類史のすべてにわたって《正面突破》し得る。こういう《パラダイムの無いパラダイム》だと考えます。

 《オシエ》は要らない。宗教としてのオシエも世界観としての〔それを正しい世界認識だと言い張る場合の〕オシエも 人はそれらから自由になって行く。




 ・【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8961079.html

 ・【Q:原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは・・・どうしてか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8453243.html

 ・【Q:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?】 ~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8938723.html

  コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。

  すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが  an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このデカルトについては まだ最近やっと発見した新事実です。


 ・【Q:《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8976826.html
 ☆ 不評を買っています。《あやまちうるスサノヲ人間語》と《あたかもあやまち得ざるアマテラス普遍悟(科学悟および人格語)》といった概念を用いて いささかの《人間と社会との理論》のためのパラダイムを試作中です。

投稿日時 - 2015-07-17 10:54:33

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回答(6)

ANo.6

>「まづ相手の――わたしの場合に限らずつねに誰れであってもその相手の――見解や命題について それを正面から受け留めたという姿勢を示すことから 対話が始まります。どうでしょう。」

「自由」について、一歩踏み込んだ見解を与えられたと思っております。

投稿日時 - 2015-07-19 06:30:06

お礼

 お粗末でした。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-07-19 07:30:58

ANo.4

「お礼コメント」をありがとうございました。

> まづは ご回答をありがとうございます。
⇒こちらこそ、「難くせ」のような申し立てにお返事いただきまして、ありがとうございます。

> (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。
> (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。
⇒え? それなら、何も始まらないのではありませんか?

> つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。
⇒さればこそ、演繹法などを工夫したわけでしょう?

> よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。
⇒と言うたかて、その「根拠」が示されていないから、問われても答えられないのですよ。

> 哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。
⇒正直、マルクスはよく分かりません(その昔、古在訳も途中で投げ出しました)が、ヘーゲル(神頼み)への不満をフォィエルバッハ(人間中心)に求め、それでも満たされない不満(観念論的唯物論)を克服しようとして科学的唯物論に至ったのでしょう? 「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか?

> ・ 読点( , )の除去につきましては 読むのにそれほど差し障りはないと思うのですが。それに 《 , 》を入力するよりは 一字開けのキーを打つほうが速いので 省エネになるかと思うのです。
⇒個人の自由を拘束するつもりはありませんが、でも日本語の正書法では、“「読点」と「空白」を互換的に利用することができる”ようにはなっていませんよ。

> ・ 《行もあまり空けないで》というのは どうしてですか? なかい702さんも 今回のご回答で行空けをされていますし。
⇒はい、そうですね。ただし、「有意味な行空け」はせいぜい1行でしょう? 4行も6行も空けると読みづらいですよ。

> ・ 歴史的仮名づかひで書く人もいますし いまのところそれほど 鼻につくとは思っていなかったのですが。
⇒そうですね。私も、それほど、「青筋立てて」まで、申しあげるつもりはありません。

以上、再伸まで。

投稿日時 - 2015-07-15 22:16:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。
  > (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。

 ⇒え? それなら、何も始まらないのではありませんか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。言い方を間違えていたかも知れません。次の応答をも合わせて捉えてもらえるとよかったでしょうか。

 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~ 
 つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。

 よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。

 哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次々と提示される世界観は 人間の有限な能力にもとづくかぎり部分観であることをまぬかれないので もともとマチガイを含んでいる。ゆえに 世界観をともかく提出しないことには《何も始まらない》のだけれど その世界観を提出するというコト自体には もう主眼がない。という見方へと変えてはどうか? ――こういった内容に過ぎなかったのですが それでもあたかも《全体としての答え》を出したかに 言ってしまっていました。





 ★ ⇒さればこそ、演繹法などを工夫したわけでしょう?
 ☆ これは ですから ちょっと違っていて 演繹法であろうが帰納法であろうが 人間の描き得る世界観は 有限で部分観でしかないということを言いたいのですが?



 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。

 ⇒と言うたかて、その「根拠」が示されていないから、問われても答えられないのですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ますます舌足らずだったと反省しますが それでも言おうとしたことは こうです。:
 すなわち 部分観でしかなかった世界観について それを認めて こんどは全体観に立った理論を提出しますよと言って それに取り掛かるというよりは そうではなく そもそもそのような世界観提出の欲望から自由になることが 最初にやることではないか? と言おうとしています。

 《根拠》は 《全体観を描き切ろうという欲望から自由になった状態》を想定し得れば その状態の現実性に見ようとしています。




 ★ マルクスは[・・・]「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか?
 ☆ その《欠けているところ》を補って全体観に立てる理論および実践としての思想を打ち出せば 《弁明は要らない》と言おうとしたわけだと思います。つまり 《真理》に対応する理論内容を表現し得たならよいはずだという前提に立っているものと思われます。


 確かにこの《世界観を提出するという欲望から自由に成ると言うなら 世界観の提出じたいを控える》ことではないか? それでは《何も始まらない》ではないか? という批判がただちに出されるのでしょうけれど そのときには次のような構図になるはずです。

 すなわち 片や《出来るだけ精緻な世界観を持って実践をすすめる人間たちとその社会》という像が捉えられ 片や《そもそもいっさいの世界観から自由な人間 どうしが 試行錯誤で模索しつつ社会を形成して行くという世界》なる像とです。
 
 




 ★ でも日本語の正書法では、“「読点」と「空白」を互換的に利用することができる”ようにはなっていませんよ。
 ☆ 変化しうるのではありませんか?

 最近の変化としては たとえばアラビア数字が 漢数字に取って代わりつつあります。

 それと 句点( 。 )が 英文のピリオド( . )で代用されている事例があります。





 ★ ただし、「有意味な行空け」はせいぜい1行でしょう? 4行も6行も空けると読みづらいですよ。
 ☆ そういう意味でしたか。でも 段落分けにはよいと思ってそうしています。読みやすくなるとさえ思っていました。



 引用文のあとに なかいさんのように ⇒ なるシルシをつけると読みやすいのですが これが無い場合があります。これは 一般的な問題になるかとは思っています。
 

投稿日時 - 2015-07-15 23:33:08

ANo.3

せっかくのご投稿・お尋ねですが、正直、質問の意味(特に、根拠の部分)が分かりません。私の読解力不足ということもあるかも知れませんが、blagelonneさんの書き方にも改善の余地があるだろうと思います。

(質問形式のご提案)
例えば、「Aによると、BはCについてDと言っている。私は、このうちのEについては、間違っていると考える。なぜなら、Fだから・Fとしているからで、ここはGのようにすべきである。そして、その理由はHである。さて、皆さん、この私の考え方に対する賛否両論を寄せてください。」といったような形で投稿していただければありがたいです。

なお、表記の仕方も、ふつうの句読符合を用いて、ふつうの正書法で(つまり、句点の代りに空白を入れるなどをしないで、行もあまり空けないで)書いていただけるとなおありがたいです。

といっても、上記も含め「個人の自由」の部類でしょうから、無理にとは申しませんが、読み慣れた形式で書いていただければ助かる、という意味での「希望的ご提案」です。

以上、僭越ながらご提案まで。

投稿日時 - 2015-07-15 10:56:44

お礼

 そうですか。まだまだ――半分うれしいことに――わたしは問題児ですね。

 まづは ご回答をありがとうございます。


 問うている趣旨は:
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
 (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。

 
 (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ にあります。




 ★ (質問形式のご提案)
 ☆ は ややこしいですね。複雑で むつかしいですね。

 この質問の場合は 少し違うと思います。つまりもっと単純です。

 つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。

 よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。

 哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。

 単純です。その意味では 《質問形式のご提案》は ここでは ぜいたくでもったいないものだと思います。




 ・ 読点( , )の除去につきましては 読むのにそれほど差し障りはないと思うのですが。それに 《 , 》を入力するよりは 一字開けのキーを打つほうが速いので 省エネになるかと思うのです。

 ・ 《行もあまり空けないで》というのは どうしてですか? なかい702さんも 今回のご回答で行空けをされていますし。

 ・ 歴史的仮名づかひで書く人もいますし いまのところそれほど 鼻につくとは思っていなかったのですが。






 問題児であったことについてうれしいと言ったのは そろそろべらんめえ調をも直さねばならないのかなと思っていたところ そうは成っていなかった。ので その問題児ぶりが直っていないぶんだけ まだ伸び代があったかとうれしくなってしまいました。

投稿日時 - 2015-07-15 13:49:20

ANo.2

B様、こんばんは。


>「もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。」

そのためには、やはり、「信教の自由」について、「限界」があることを、言わなければならないでしょう。

投稿日時 - 2015-07-15 02:05:34

お礼

 但し書きは 基本の命題についての注意事項です。

 言いかえると 基本的な命題は その内容の有効性を保証するため具体的な条件について考えます。その条件つまり但し書きが ただちに書いていないからと言って そのことをすでに織り込んでいないわけではありません。

 つまり 但し書きは 命題とは別の命題をつくるものではありません。


 そういう前提に立って 但し書きを添えるようにしましょう。



 すなわち この《自由》の命題(≒ひとつの判断)については いくつかの条件づけも必要になるのでしょうね。と言って その条件としての但し書きを考えてみるとよいでしょう。

 まづ相手の――わたしの場合に限らずつねに誰れであってもその相手の――見解や命題について それを正面から受け留めたという姿勢を示すことから 対話が始まります。どうでしょう。





 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-07-15 09:35:19

「マルクスは まちがっている」←あっそう・・・

あなたも間違ってる・・

その事には 気づかないの!?

投稿日時 - 2015-07-14 11:04:00

お礼

 気づかないよーーーーー。




 ご投稿をわざわざ すみません。

投稿日時 - 2015-07-14 11:20:06

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