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解決済みの質問

闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

 まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。

 (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。

 ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。



 (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。 

 (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。
 その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。
 ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。



 (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。

 (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。

 重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。

 (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。

 (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。

 (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。

 (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。
 



 という哲学を問います。よろしくどうぞ。
 

投稿日時 - 2015-08-15 22:33:18

QNo.9030881

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

お礼とひとつ

> ひとつだけ。つまり あたかも自分たちが神になろうという魂胆だけは いただけないように思われ ます。 これを 例によってぶらじゅろんぬ造語ですが アマアガリ・シンドロームと名づけます。

神様のように思えたり、私自身が恥ずかしくなって目を軽く伏せてしまうのは、ほんとうに普通の民としての生活をおくってらっしゃるような 例えばひとつひとつを慈しんでいたり曲がったことはすぐ正しておるような人です。瞳が澄んでいらして ついあたまを低くしてしまいます。

真正なひととはそういうひとだと思っております。


これだけお返事入れておきます。わたしも休みます、ゆっくり休んでください。

投稿日時 - 2015-08-18 00:26:04

補足

 ほかのいろんな質問を見ていると 何だか――勝手ですが――お寒いので 思い切ってさらになお質問を挙げてみました。

 方針転換というのでもなく。

投稿日時 - 2015-08-18 10:01:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 真正なひととはそういうひとだと思っております。
 ☆ という理論に立つとき そのひとは つねに相手に合わせて(相手の欲するところに対してこたえるために話を合わせて) ときには破廉恥なことさえをも 言ったりやったりすることがある。

 右よりも右 左よりも左になって言ったり振る舞ったりすることがあり得る。のではないかと思っています。



 と言いますか けっきょく暴れん坊タイプとそうではない理論のままのタイプと ふたつあるかも知れません。とは思いました。





 いま――《教えて! goo 》で一問とともに――ここではこの《闇・光》の一問のみをもうけています。
 受け身のかたちでそのまま開いていて 休息をとるかたちにしています。

 でも お互い一たんおつかれさまでしたと行きましょうか。ではでは。

投稿日時 - 2015-08-18 05:10:13

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回答(8)

・・・といいましても

学問や芸術や信仰心によって得られるecstasy は快感で一線こえた感じもあるが、結婚して家族をもって線香花火をすることを否定することはできないよね。・・・ですかね。

連続投稿ごめんなさい。お礼文や過去質問主文でかかれるお二階についてです。

投稿日時 - 2015-08-17 22:07:18

お礼

 なるほど。つまり 雲の上をあるくような・アマアガリ的な快感は 大きな花火や仕掛け花火を打ち上げているような華々しくも大いなるまぼろしを追い求めている側面がある。

 線香花火の地道さを知らなくなってしまいがちだ。・・・ですかね。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-08-17 22:25:01

こんばんは。頭の動かし方をかえての再投稿です。

理解を確かめるために質問主文をなぞるかたちにしました。

ある知性が 心の高き時に『純粋存在なるまぼろし』をみた。『孤高』を体験した。
この幻にとりついた人がおった。その孤高に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその『いと高きもの』に近づいたとき、彼は喜んだが、まわりの人を見回しても 関心をもつような者はおらんかった。----誰も高きものを求めてはおらず、たとえば、日々のささやかな生活で十分であった。

しかし、『いと高きもの』の彼は諦めなかった。この快感の得られる我の理想はみなの理想になり得るものである。この神聖さをこの世にもたらすべきだと考えた。この世を常世の国-----永久にかわらない神域にすべきだと考えた。

その上に この世(一階)に対する理想の世(二階)として この世と理想の世とが分け隔てられることになった。この世自体が理想の世である・との認識が否定される始末になった。





抜け落ちてしまったところもあるでしょうが、混乱しないように纏めてみました。


>女性のかたでしょうか。

女です、okwave登録時にまちがえて男性ボタンをおしました。

ただ、調べてみると出雲の祭り?では男の子に女装をさせるようで、アマテラスさん男説がちらっと目に写りました。確認はしていないです。





http://okwave.jp/qa/q9018992/a25087906.html
http://okwave.jp/qa/q9019593/a25089312.html

投稿日時 - 2015-08-17 21:47:57

お礼

 すてゅ2580さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 女性の方でしたか。
 つまり わたしは化けの皮が剥がれると べらんめえ調になりますので そのときには 乱暴になってしまったかと反省します。



 アマテラスは スサノヲが自分(=アマテラス)の治める国つまりタカマノハラをおとづれて来るとき 自分の国を奪おうとして来るのだろうとうたがって すでに鎧か何かをつけてつまりは武装したそうですよ。つまり その話からは 女性であると推測されます。

 あっ つまり 髪を男性のかたちに変えたというところからです。




 アマテラス種族と言いますか その人びとにも自分たちの望みや悲願があるようです。

 伊達に国家の運営に向けて努力したわけではないようです。いのちを賭けてやっているのかも知れません。

 理想もあるのでしょうね。


 ひとつだけ。つまり あたかも自分たちが神になろうという魂胆だけは いただけないように思われます。
 これを 例によってぶらじゅろんぬ造語ですが アマアガリ・シンドロームと名づけます。

 
 
 ちょっとわたくしもマンネリに落ち入ったかと感じています。

 休みを取って またがんばろうと思います。

 今回もお茶を濁しました。あしからず。

 


 

投稿日時 - 2015-08-17 22:19:27

bragelonneさん おはようございます。

昨日の回答は、暗闇(悪)も許されると、受け取れかねないので、bragelonneさんが良く質問する「自由意志」という見地から、アウグスティヌスの著作、「自由意志」から要点を抜粋して回答します。

自由意志1巻8章・9章にアウグスティヌスは

「人間をして動物にまさるものとなすのは、精神(メンス)と霊(スピリトゥス)を持っていることとしています。

そして、動物の生存行為はすべて、身体の快を求め苦痛を避けることで、最も低い性質としています。さらに、人間は賞賛・名誉・富への支配欲があり、これをは動物にはないが、「欲情」としています。

そして、「欲情」は「理性」に服さない欲求であり、アウグスティヌスは「悲惨」な者とする。

魂がもつこういう動きを「理性」が支配する時、人間は秩序のもとにある、として、「知者」とは、欲情が精神の支配に服して抑えられている人と定義してます。

そして、11章に、精神を欲情の仲間にさせるものは、自らの「意志」、あるいは、自由な決定以外のものではないとしています。

そして13章で、「意志」は「善き意志」であるべきとして、賞賛に価する「幸福な生」を受けて一生を過ごすかはどうかは、「意志」によってであり、また恥ずべき「悲惨な生」を受けて一生を過ごすかどうかも「意志」であるとしています。

つまり「悪」を行う人は、悲惨で、愚かな人であり、人によれば人間でなく動物的、快楽のみを追い求める。

最後にこの曲を添付します

https://www.youtube.com/watch?v=L4LncgLFawQ

では、お礼においての考察をおまちしています。

投稿日時 - 2015-08-17 08:44:55

お礼

 おはよう ワトソンくん。ぢゃなかった。イクナートンさん。ご回答をありがとうございます。



 ★ 昨日の回答は、暗闇(悪)も許されると、受け取れかねない
 ☆ そのとおりです。



 ★ そして、11章に、精神を欲情の仲間にさせるものは、自らの「意志」、あるいは、自由な決定以外のものではないとしています。
 ☆ そうですよ。おのれの心つまり意志にさからう自由度をもその意志は持つ。
 それは ウソ・イツハリから始まっている。
 ウソによって 存在ないし人格ないし要するに自由意志なる善に傷がつく。つまり 善の欠けが生じる。人間は自分でこの善の欠け〔としての ひと言で言えば 悪〕を欲した。


 この主題が 出発点であり 最後までつらぬかれるやはりテーマですね。
 だから エデンの園でのエワとアダムによる《背き・裏切り》からじんるいの物語が始まっている。

 
 それは いいのですが あとの部分としての要約は―― 一たん褒めておいてそのあと貶すという手法を採らないのを旨としている人間ですが―― あまりにも優等生っぽい。無難なところをまとめておいた。という印象しか残らない。

 わるいとは言いませんが そういう感じですね。


 
 つまり 《自由意志》の主題というのは もし信仰という見方の中におけば さらに重大な主題が伴なわれていますよ。


 《自由意志と恩恵》です。
 人間どうしのあいだでは 互いにその意志行為は 自由です。それぞれの意志が選択した自由行為どうしのぶつかり合いになります。これが 社会です。

 ところが 人間と神とのあいだでは じつは・じつに 自由意志は――つとめて人間の側に立って擁護しようとしたのだけれど――神の意志に勝てなかったとアウグスティヌスは語っています。

 極端に言えば 人間の自由意志は 神の意志に《隷属》するよりほかにない。のではないかと。

 この主題は 《シンプリキアヌスへ》という小論でアウグスティヌスは 論じています。(三位一体論そのほかでも扱っていますが この小論がくわしいです)。

 人間は 自由意志の自由をすべて神の意志にささげなければならないとさとる地点にまで来る。(いくらよき理念にもとづくものであっても それを含む一切のハカラヒの無きことを 親鸞は 目指した)。

 そのように 〔それでも 初めは〕自分の意志として ふるまう。(ハカラヒを無くそうというハカラヒであるのだが)。
 それが いつしか出来たときには じつはそこでハタとさらにさとって あなたは こうべを垂れ腰を折り膝まづく。そのあなたに対して その手を取り上げて起こしてくれるのは 神の意志である。と。

 これが 神の恩恵である。

 《めぐみ》は つまり かえって人間の自由意志をそこに来て 建てる。のだと。(ヨブの物語に似ていますね)。





 

 ★ ♪ 愚か者よ
 ☆ これは やはり《光と闇》の話に似ていますね。闇を重んじ過ぎていないかというのと同じように 愚か者であることを 顧みているのでしょうが 卑下する立ち場ともちょっと違う部分さえもが現われている。つまり すでに自慢している部分が垣間見られます。これは だめだと思う。哲学としては。

 ゆったりとした曲調は なじみやすい。かな。

投稿日時 - 2015-08-17 10:42:27

No2です。お礼欄を読んで、学問?のところは今から勉強して咀嚼します。回答ができないので一先ず置いておきます。

> アマテラスさんもすがすがし となればいいのになあ。(であってますかね。)
スサノヲさんが死の国は嫌かなんかで生を目指した・生きた(アマテラスさんは怒ったけれど)すがすがし となった。
天地逆転(とかなんとか)で、スサノヲさんに代り、アマテラスさんが死の国を納める。たとえば 死の国=社会・在ではなくイメージ・を治める。社会は横の広がりならば女性のアマテラスさんの仕事にいいと思ったのですが・・・。

独り言ちっくですが、社会問題なので 考えたかったわけです。
ご教授くださいとはいいませんけども、どうなのでしょう。

無茶苦茶かな。
女性なので すこしはアマテラスさんの気持ちを理解しやすい立場なのかなあと思って投稿です。死の国は荒れ放題なのじゃないのかしら。太陽が納めたら、もとあるところにおさまるのだは。その代わり農家生まれは農家を継ぐし、大工は大工・・・ 農家から官僚にいく 自由なりなんなりはなくなんのかもしれないし 独り言ですけれども。もんもんとしてました。

投稿日時 - 2015-08-16 23:51:40

お礼

 むつかしいなぁ 今回。まづは ご回答をありがとうございます。


 こちらも独り言チックにまいります。




 アマテラスお二階さんは一階に大政奉還すべし。
 いわゆる地域主権について問うかたちの議論です。

 なぜ大政(ムラムラのマツリにもとづく共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?
 それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かると考えます。
 すっ飛びの仮説によって考えてみます。

      *

 感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。

 イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。

 ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。

 ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。




 このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のかたちとして平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。

 かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。





 《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。

 広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており そういう問題をとしてもあつかうことができる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。



 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?

 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。



 つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。

 イリ人は このイデアなる光をとおして――《をとおして》――世界を捉え カミにささげものをしマツリをおこなった。
 ヨセ人は この光なるイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。

 こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。マチガイである。
 ますます精進し いよいよ人間的となったことが 裏目に出ている。



 イリ知性のスサノヲ市民らは 一般にあやまち得るスサノヲ人間語をしゃべっている。
 この人間語から普遍的な要素要因を取り出し抽象的にして人びとに共通の概念をみちびき出す。この普遍語は 科学語であり 人間の振る舞いについては倫理的な人格語である。要するにあたかもあやまち得ざるアマテラス普遍語となる。

 神聖にして侵すべからざるアマテラス語をしゃべる人間が出現した。

 この無謬性の神話につつまれたところから マの違いが現われた。
 アマテラス普遍語が 方言となった。人間そのものは あやまち得る存在でしかないから 普遍語はオモテの現象またはタテマエとなり ホンネとのあいだに二枚舌現象が起きる。ないしダブルスタンダードが けっきょくのところ誰の目にも明らかに分かるようになった。

 これは 普遍語が訛っている。方言である。



 これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか悲惨な歴史もあったにもかかわらず 総じて無難にこなして来ていた。

 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。新国立? エンブレム? また 財政的・経済的にも立ち行かなくなった。
 アマテラス公務員およびツクヨミ官僚の無謬性なる神話がくづれた。

 マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?
 じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 
 

 



 ★ 女性なので すこしはアマテラスさんの気持ちを理解しやすい立場なのかなあと思って投稿です。
 ☆ プロフィールを見たら 男性とありましたが 女性の方ですか?




 ちょっと だらだらとした文章になってしまいました。読みづらいでしょうが 《死の国とそれをおさめること》とか わたし自身がまだあいまいなままですので 文章もそのままとしようと思います。あしからず。

投稿日時 - 2015-08-17 06:23:14

bragelonneさん こんばんは。

「(θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。」

という部分だけ、少し掘り下げます。

bragelonne哲学の基盤でもある、アウグスティヌス神学は新プラトン主義の考えをキリスト教と融合されたので、プロティノスの一者からの光(善)が届かないところに闇(悪)はあるとして、

「善の欠如が悪。」

というのがキーワードになると思います。

つまり、聖書では、光は闇に打ち勝つと高らかに書かれてますが、プロティノスの思想では闇を肯定している。

これは、中世の神学者のスコトゥスだったか、オッカムだったか、忘れましたが、闇というものがあるからこそ、光が引立つ。言い換えれば、悪があるからこそ、善は引立つということを、画家が絵を描く際に、美しい色ばかりでなく、醜い色を混ぜるからこそ、美しさが引立つと言ってます。

この考えは、以前、a_honaさんに回答しましたが、イギリスのエドマンド・バークが「崇高と美の観念の起源についての哲学的研究(1757年)」において、「美」という「調和」「完全」に対し、「崇高」という苦痛や危険を乗り越えた後の「喜悦」を重視して、絵画において、「曖昧さ」「欠如(空虚・暗黒・孤独・沈黙)」を重視した理論を作り、この考えは大陸に渡り、カントの判断力批判の中の美の概念や19世紀のイギリスの風景画家、ターナーに多大な影響を与えています。

話は変わりますが、誰が書いた本だったか、忘れましたが、たしか「自然哲学」という本の中で、ある日本の哲学者は「暗闇」の夜の環境こそ哲学の時間であると書いてました。

ようするに、暗闇では、五感の、視覚というものが、制限され、その代わり聴覚が敏感になる。視野がせばまる暗闇においては、認識できる対象が限られるため、思考は、おのずから、自己の内面に向かい、自己と対話する、貴重な時間とのことです。

電気が煌煌とした都会において哲学をするには、ふさわしくないかも。例えば夜空を見上げても、星は数えられるほどしかなく、ピュタゴラス教団のような、星の運行から哲学するなどということは出来ない。

現在において哲学が廃れているのは、エジソンが電球を発明したことによるのではないか。

しかし、私は眠気に打ち勝ち、勉強するには、家の近くの24時間煌煌と明かりのついた、セブンイレブンの百円コーヒーは欠かせません(笑)。

現在、コーヒー2杯とホイップドーナツを買ってきて、食べながら回答してます。

夜明けと共に働き、日没と共に仕事を終える生活に憧れもしますが、都会生活が染み付いたのか、コンビニなしの生活は考えられません。

本当の月も出ておらず、電灯もない、暗闇の道を歩くのは、やはり勇気がいるかもしれません。

幽霊が出るかも。夏の怪談話は涼しげにさせられます。

では、お礼にてbargelonneさんの考察をお待ちしております。

投稿日時 - 2015-08-16 20:25:29

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ つまり、聖書では、光は闇に打ち勝つと高らかに書かれてますが、プロティノスの思想では闇を肯定している。
 ☆ 《光のほかに闇が存在すると認めること》と《闇を肯定すること》とは違うのではないか。つまり
 ★ 闇というものがあるからこそ、光が引立つ。
 ☆ というほどに 闇をとうとぶのは 行き過ぎではないのでしょうか。

 ▲ (パウロ:ローマ書3:5~8) ~~~~~~~~~~
 5: しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

 6: 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

 7: またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

 8: それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ たしか「自然哲学」という本の中で、ある日本の哲学者は「暗闇」の夜の環境こそ哲学の時間であると書いてました。
 ☆ ちょっと違うように感じます。

 歴史は言わば夜から始めますが それは光を得たゆえに始めるのです。光を得ていなければ まだ始まる気遣いはないと言えます。

 もっとも その夜に光を得たということはあり得ましょうが。




 インスタントですが コーヒーは飲みます。いまは アイスにして。
 百円コーヒーと言っても 高くつくのではないの?




 このところ バークがよく出て来ます。
 テレビで誰かしらが言ったし(西尾幹二でしたか) アガサ・クリスティーのミス・マープルのテレビ・ドラマ化したものでも 出て来た。(《 Murder is easy. 》だったか)。

投稿日時 - 2015-08-16 22:11:09

非知であり非経験であるから、非知も知も非経験も全経験もできて、これ以上の想いやお恵みは他にないと思ってしまいます。

もし仮にそれが父か祖父かのスサノヲが与えられた神の国ならば、上記の悦びは「二番煎じ」というものでしょうか。あるいは、違うならば違うかもしれません。

→スサノヲと天照(と、ツキヨミはどうなのだろう・取り敢えずどちらにしても)お二方が(あるいはその他の登場人物も含められるかして)一緒になる世界は 平たくいって、平和かなと思いました。意気消沈の平和ではなくて! 多種の認識?が飛び交うなかで、だけれどもそのことを知っている から混沌ではない・・とか。

(α)必要のない表現は開示欲求どまりです。神様からはまだ遠い。・・・とおもいます。


Okwaveの哲学欄観ては調べものしてます。前回(覚えてらっしゃらなくとも)丁寧なお返事にお返事返さずごめんなさい。いつも有難うです。

投稿日時 - 2015-08-16 00:48:25

お礼

 すてゅ2580さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ もし仮にそれが父か祖父かのスサノヲが与えられた神の国ならば、上記の悦びは「二番煎じ」というものでしょうか。あるいは、違うならば違うかもしれません。
 ☆ ええっとですね。そうですね。

 (あ) 信仰――つまり 普遍神とわれとの関係――があたえられることと われに神の国が生起したということとは ほんの少し違いがあります。

 (い) 神の国という表現をする場合には そのひと(この場合 スサノヲ)がまわりの人びととつくる共同体のことをも 視野に入れて述べています。

 (う) この質問での主題としての信仰は スサノヲならスサノヲただひとりについて――ことさら一人を取り上げて――問題にしています。

 (え) 核心は どちらも同じです。スサノヲについてなら

    わが心 すがすがし。

 と自己表出する瞬間がそれです。あるいはつまり わが心の灯心に火がともされた一瞬のことです。

 (お) そしてこのように《わが心に非思考の庭が成る》という瞬間の出来事は ひとそれぞれに固有のことですから 《二番煎じ》という見方とは別だと考えます。

 (か) 汲めども尽きせぬ水がわが心の泉より湧き出るようになることは ひとりの人にとって一生に一度のことです。そのあとで脱線しても 棄ててしまっても その一度は一度です。一度っきりのことであって ほかには無いのだと思います。




 ★ →スサノヲと天照(と、ツキヨミはどうなのだろう・取り敢えずどちらにしても)お二方が(あるいはその他の登場人物も含められるかして)一緒になる世界は 平たくいって、平和かなと思いました。
 ☆ (き) ツクヨミは 言わば官僚です。事務係あるいはシンクタンクです。

 (く) 一にも二にも アマテラスの心が癒されることが スサノヲとの和解の最大のテーマだと考えます。

 (け) アマテラスにも スサノヲと同じく《わが心 すがすがし》と言う事件の起きることをいのります。


 ★ 意気消沈の平和ではなくて! 多種の認識?が飛び交うなかで、だけれどもそのことを知っている から混沌ではない・・とか。
 ☆ (こ) インタムライズムといった社会制度へ移行する過程として――つまりそのようなまだただ頭の中での展望の段階としてでもの過程として―― 議論が展開されるようになれば 具体化するものと思っています。

 (さ) お二階さんの引っ張る《アマテラス公民圏主導 - スサノヲ市民社会従属》なる連関が 反省されるようになることです。

 (し) けっきょく今はあたまで歩く逆立ちの《 A - S 》連関制ですから。《多種の認識》も飛び交っていても 声の大きい認識によってかき消されるか または そのデカイ声のほうへ誘導されて行ってしまう。

 (す) それとも はっきりと国内の勢力としての《反日》の声が 一定の位置を占めるか。――これは はっきりと《 S圏主導 - A圏従属 》なるインタムライズム連関制へと移行する過程を見据えた上でその声を挙げるのでないと なかなか現実的ではないと思います。



 ★ (α) 必要のない表現は開示欲求どまりです。神様からはまだ遠い。・・・とおもいます
 ☆ まだあいまいであったということですね。

 (せ) ペテロを初めとする弟子たちにも イエスなる男がキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であるというコトは 分からなかった。(言葉では そう言ったりしていますが)。

 (そ) つまり イエスが十字架じょうに去って行ったそのあとやっと――のちに物語においてだけとしても――キリストであったとさとる。

 (た) 神キリストは その後ろ姿をしか人びとは見ることが出来ない。ということになるのだと思います。その意味で 弟子たちを始めとする人間は
 ★ 神様からはまだ遠い。・・・とおもいます






 ★ お返事返さずごめんなさい。
 ☆ いえいえ だいじょうぶです。うけたわまりました。

投稿日時 - 2015-08-16 07:54:44

ANo.1

今回は、
なんだこれは。
これが正直な感想だ。
友人として言おう。
イエスすらも捨てろ。
君自身として神のみに生きろ。
君は私と同じ仏陀の罪の途上だ。
いやか?
喜んでやっているのはあたしも判る。
その先に、ジジイはどんな仮面ライダーを名乗るんだ。

業務上の連絡をしておこう。
平成仮面ライダーは全員私の弟子で、昭和時代の初代仮面ライダーを君が名乗り出るなら、師匠として君を推薦しよう。
ジジイになった今から、ライダーバトルに参戦したくなったら、私に判るようにこの場で書き込むだけで、スムーズにそれは実行される。
男を誇る戦いが君にあるなら、ジジイでも仮面ライダーになれる。

君は絶対悪的に圧倒する私が認める友人だ。
この資質は、私が人類の裏切り者となってまでも悪を愛する事と一致している。
ジジイ。
若返りたければそう言え。

投稿日時 - 2015-08-16 00:44:25

お礼

 ☆☆ (【Q:スサノヲ・・・】No.5お礼欄) ~~~~~~
 《信仰》というのは 何も認識はない。認識しているものは何一つない。んですよ。

 ただ 《かみ》という言葉をわが心に受け容れたというだけ。

 何らあたらしく認識がくわわったということは ない。

 《非思考》です。
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 ブッダは ふるい。



 イエスは 何かと説明が必要なときには 名前を出す。いまも有効だ。ずっと有効である。





 ご回答をありがとうございます。





 怪傑ゾロくらいが いい。
 あるいは 眠狂四郎。

投稿日時 - 2015-08-16 07:10:07

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