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解決済みの質問

南北朝時代は日本には天皇は2人いたのですか

本によると当時天皇は南朝、北朝で交互に出したとありましたが、交互なら天皇は1人のはずですが、よく理解できません。また当時天皇は2人いたという本も見た記憶があります。
今上天皇は125代ですが、北朝の天皇のみ入れた代と書いてあります。仮に南朝、北朝交互に
天皇が即位していれば、南朝からの天皇はどうされたのですか。代に入ってないことになりませんか。教えてください。

投稿日時 - 2015-09-08 12:51:44

QNo.9044176

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

質問者様は、誤解されています。
天皇が北朝と南朝に分かれて、二人が自分の方が正当な天皇であると言って争っていたからこそ、当時の時代名称が「南北朝時代」になっているのです。

あなたが交互に即位したと言っているのは、それより以前の鎌倉時代の話しです。
第88代後嵯峨天皇の皇子に、後に89代となる後深草天皇(長兄)と90代の弟・亀山天皇がいました。
順番からいってまずは長兄である後深草に天皇の位を譲って、自らは上皇として院政を始めました。しかし、その愛情は兄よりも弟の方に注がれていたのです。
ほどなく、父・上皇の命で後深草は弟・亀山に譲ることになります。
その後、様々な確執があって、最終的には後深草の系統と亀山の系統とが交互に皇位に就くというルールができ、後深草の方が持明院統、亀山の方は大覚寺統と呼ばれるようになったのです。
これは鎌倉末期まで続いていたのですが、幕府の弱体化に伴い、大覚寺統の第96代後醍醐天皇になって、討幕の動きが激しくなります。
(説明を続けると延々となってしまいますので中略)

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は天皇親政を始めますが、討幕の実質的な功労者であった武士の不満が高まり、結果としていわゆる「建武の中興」は3年で頓挫して、後醍醐は京を捨てて吉野へ逃げて南朝を作ります。京都の御所には天皇がいなくなってしまったため、足利尊氏が持明院統の光明天皇を皇位に就けました。これが北朝と呼ばれるもので、ここに「南北朝」の対立が始まります。
ですから、その後60年経って両朝が合一するまでの期間が「南北朝時代」なのです。

南朝は皇位の象徴である「三種の神器」を持っているから自分の方が正当だと言いますが、実際に実権を握っていた足利幕府が後ろ盾の北朝の方が優位であったことに間違いはありません。従って、この60年間は天皇が二人いたと言えるのです。

それから、最後の疑問点の認識にも誤りがあります。
南朝と北朝のどちらが正統かとの議論は古来ずっと続いていました。
明治維新は天皇を中心とした国体を目指していましたので、最終的には明治天皇の裁可で「南朝」が正統であると決められました。
従って歴代天皇の代数も、南朝の天皇だけで決められており、北朝の天皇は参考値的に、北朝だけの代数で表記されています。
実は血統だけを考慮すると、現在の天皇は北朝の末裔ではありますが。

投稿日時 - 2015-09-08 14:33:27

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回答(4)

 昔ですと、天皇は存命中に退位して、上皇、さらに出家して法皇となることがよくありました。退位するときは、皇位継承権を持つ人から次の天皇が選ばれます。天皇、上皇、法皇と、最高権威の人が複数いる状況です。上皇、法皇が事実上の最高権威であることも珍しくありませんでした。

 鎌倉時代に端を発するのですが、後嵯峨天皇は在位わずか4年で退位し(上皇の後、法皇となる)、第3子を選んで後深草天皇としました。ところが、後嵯峨上皇は第7子を溺愛しており、後深草天皇を退位させ、亀山天皇としました。

 しかし、後深草上皇派も勢力を保ったままで、次第に亀山天皇派と対立するようになります。事実上の天皇家の分裂です。

 後深草天皇の直系子孫が持明院統、亀山天皇の直系子孫が大覚寺統と呼ばれています。鎌倉幕府などの仲介もあり、両統から交互に天皇が選ばれることで、両派は合意します。これを、両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼んでいます。

 以上がおそらく、質問者様のご覧になった説明と思われます。この時代はまだ鎌倉時代ですが、両統の対立が既に始まっており、南北朝時代のさきがけともいえる状態です。南北朝時代として説明しても、あながち間違いともいえません。

 鎌倉幕府打倒後、建武新政を開始した後醍醐天皇は大覚寺統の天皇です。これに反旗を翻した足利尊氏は、持明院統から光明天皇を擁立します。二人の天皇が併存する事態となったわけです。以降、後醍醐天皇の系列を南朝、光明天皇の系列を北朝と呼んでいます。南北朝の内乱、つまりはっきりと南北朝時代が始まったわけです。

 南北朝、どちらも自分だけが正統であると主張していましたから、正統な二人の天皇という認識があったわけではありません。半世紀に渡る抗争の後、劣勢が決定的となった南朝は和議に応じ、南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に譲位する形を取って退位、二人の天皇併存は解消されました。

 このときの和睦条件に、また大覚寺統と持明院統の両統迭立に戻すという取り決めがあったのですが守られず、北朝の持明院統だけから天皇が選ばれていくことになります。南朝の持明院統が特に迫害されたわけではなく、血統は無事続いたのですが、皇位継承権からは次第に外れていってしまいました。

 南北朝時代には常に二人の天皇がいたわけですが、どちらを正統とするかは、南北朝時代以降、諸説生じて決着がつかず、明治時代にようやく現在の系譜に決しました。ウィキペディアから要点を引用します。

・ウィキペディア:天皇の一覧→歴代天皇の確定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E5.A4.A9.E7.9A.87.E3.81.AE.E7.A2.BA.E5.AE.9A
> ・1911年(明治44年)には明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、従来の第96代・光厳天皇から第100代・後円融天皇までの5代5人を北朝として正統から外した。
>  ・南朝の義良親王は天皇とされていなかったが、「後村上天皇」とした。
>  ・南朝の熙成親王は天皇とされていなかったが、「後亀山天皇」とした。

 南朝の天皇を正統として第何代天皇と定めたわけで、正統から外れた北朝の天皇は最後の後小松天皇を除き、「北朝第何代天皇」といった言い方になっています。この基準では、正統の天皇は常に一人だけだったことになります。

投稿日時 - 2015-09-08 18:01:18

ANo.3

北朝の初代 光厳天皇から5代・後円融天皇までは天皇の系譜(代)には含まれて居ません
南北朝が融和した事で北朝の6代・後小松天皇が100代目の天皇として皇統が続いています

つまり
正式な皇統は後醍醐天皇が立てた南朝ですが
今の皇統は北朝の血筋なのです

後醍醐天皇は吉野に逃れるときに3種の神器のうち2つを持って逃亡
自分が正当な天皇だと主張
一方 足利尊氏は 京の御所で即位した帝こそ正式な天皇だと主張しました
ちなみに南北朝どちらの天皇も 皇族の血は引いています



お互いが天皇の正当性を主張していますので
当時は「一天両帝南北朝」と呼ばれたりしました

投稿日時 - 2015-09-08 17:11:14

ANo.1

簡単に...
南北朝時代になる直前の時代は,持明院統と大覚寺統で交互に天皇が即位していました。
その後大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)が,持明院統の光厳天皇(北朝)の即位を認めずに南北朝時代に突入しました。このときから天皇が2人いることになったのです。
南北朝で争った結果,南朝が敗北して後亀山天皇(南朝)が北朝の後小松天皇に三種の神器を伝えて譲位しました。結果として後小松天皇だけが天皇として残ることになったのです。現在の天皇はこの子孫です。

> 南朝からの天皇はどうされたのですか。代に入ってないことになりませんか。教えてください。

北朝の天皇は代には数えません。北朝の天皇として北朝1代光厳天皇から6代後小松天皇まで別に数えています。後亀山天皇が99代で,後小松天皇は100代です。
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html

投稿日時 - 2015-09-08 13:27:14

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