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締切り済みの質問

善悪論と善人悪人論とは まったく違う。

 善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。

 ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。

 そのように捌くことができるというおまえさまは いったいなにさまだい。



 を問います。賛成票をもどうぞ。




 人は 自然本性なる善を基礎として 心のへそ曲がりを 止む無くにしろすすんでにしろ・多かれ少なかれ おこなって来た意志行為とともに自己形成して来ている存在である。時に悪をも引き受けている全体を成す人格としての存在である。

 善人と悪人とに いったい誰が分けるのか。

 善人なほもて往生をとぐ いわんや悪人をや は揚棄されるべきである。

 善人ゆえにだいじょうぶだとか いやいや悪人ゆえにこそすくわれるのだとか そのレッテル貼りから自由に成らざるべからず。

投稿日時 - 2015-09-28 06:29:00

QNo.9055094

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回答(4)

ANo.4

 ☆ これは 〔一般的に見ても〕《よき》デザイナーのことだけを言うのではないですか?

・デザイナーに《よき(善)》も《あしき(悪)》も無い。この概念は、質問のNo.1の回答にある

★ ・一面をとって『善人』・『悪人』とは呼べない。
 ☆ これが 単純に言ってまづ 基本であるとわたしも考えます。

これに戻ります。

《定義1》
・パクリを故意に行うデザイナーは、『デザイナー』とは呼ばない。

※※佐野さんの場合は、真相が分かりません。(特定できません)

>著作権は 哲学思想としては 文章やその論旨についてのパクリの問題です。

著作権というのは、『書籍等に書かれてある哲学や思想』だけではないのです。要するに、『著作権』と言ってしまえば、音楽・建築・デザイン(商標、ロゴ、工業製品)等も含めて広範囲にわたるわけで、限定するのであれば、範囲や解説を示さなければならない。

>ですから これも 最初に考えた人の名前を出してそこからパクって考えましたと言えば 何の問題もありません。

・あります。

>最初に考えた人の名前を出して
  その時点で盗作です。参照であれば、考えたことにならない。
  考える・指し示す⇒オリジナルでなければならない。

>そこからパクって考えました
  考えたのではない。⇒盗んだ。


>人殺しについて それを犯そうとする人間にヤマシサ反応が:
 ★ ・出ない場合もある。
 ☆ いいえ。つまり 出ない場合というのは 基本的に(生まれつき備わった自然本性としては) 出る。必ず出る。そして その後たいていは その悪の習慣に慣れっこになって出なくなったものと考えられます。

・ここで言う『出ない』は、質問者様仰っているように、環境や他者、またそれらの経験・体験によって変えられたものを言っています。
それは、次に来る例にも関わってきます。

例1)>★ それは、洗脳という表現もあるでしょうし、イスラムのように『何かを護るため』と言ったような宗教的概念もあるでしょう。
 ☆ 要するに この場合というのは 自分の努力だけでそうなるのではなく ほかからの影響がある場合でしょうね。

例2)>★ また、戦争などにおける戦闘員の『自国、国民を守る(お国のため)』といったこともあると思います。
 ☆ 心理的に気持ちが高ぶっているでしょうから 容易にそのふつうの自然の感覚を少し曲がった方向へ誘いこまれる余地があるのでしょう。

例3)>★ 原爆投下などは、人の命よりも『兵器の威力を確認してみたい』気持ちの方が勝ってしまった結果であると思います。
 ☆ なのでしょう。なのでしょうが これらの場合もみな 基本的にはヤマシサ反応が出るのです。人ごろしで反応が出ない場合というのは 基本的にはないでしょう。出なくなるのは ヘソが曲がったあとのことですから。


>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >この・みづからの心にさからう意志行為 これによって〔のみ〕 《わたし》はむくいを受けます。心が傷を受けます。善なる自然の心が欠けて行きます。腐って行きます。これが むくいであると考えます。

 ・これはあなたには言い切れないでしょう。 / もしかして、心理学を説いていますか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは わたしの仮説です。《心が傷つくのは おのれのヘソを曲げたゆえの場合に限るのであって 他人のいたづらや誹謗中傷などによってということはあり得ない》という仮説です。

・省略


>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言いかえるなら、、、

  みづからの“善の”心にさからう意志行為

 となるでしょうか??

 では、“善の”心を持たない者はどうなるのか?⇒悪の心が、当事者にとって善になる場合もある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次のように考えるところが びみょうに違います。

 すなわち 自然本性によれば 自分の心の思いにさからうのは――そういう自由度をもわが自由意志は持っているのですが―― やましい・後ろめたいことだと むしろ身が知っている。

・話の論点が違いすぎてきています。
自然本性によれば⇒これは根本的な深層識を言っているのでしょうけれど、私はそこまで深い(深層ということ)部分での話はしていません。

これは、質問者様が勝手に解釈しているのではないですか??

むしろ、そうした深層識から“やましい・後ろめたいことだと むしろ身が知っている。”のであれば、それは心に作用し、身に作用し、行動に作用します。したがって、悪の行為にはならない、到らないという事です。

投稿日時 - 2015-09-30 18:20:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 《定義1》 / ・パクリを故意に行うデザイナーは、『デザイナー』とは呼ばない。
 ☆ この場合を 《悪しき》デザイナーと呼んだだけのことです。

 ひとの存在そのもの(全体)ではなく 一部分のことや職業として捉えた場合には 良き・悪しきはあり得ると考えます。良き経営者であったが 良きパパ良き夫とは言えないというふうには言います。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >ですから これも 最初に考えた人の名前を出してそこからパクって考えましたと言えば 何の問題もありません。

 ・あります。

   >最初に考えた人の名前を出して

 ・その時点で盗作です。参照であれば、考えたことにならない。
  考える・指し示す⇒オリジナルでなければならない。

  >そこからパクって考えました

 ・考えたのではない。⇒盗んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 勘違いなさっています。自然科学や技術の発明〔をめぐる著作権ないしオリジナリティ〕になると もうその理論や技術は特定されたら ほとんどそのものとして固定される場合が多いでしょうから(部分的な修正の場合が多いでしょうから) 別になるのでしょう。

 だけど 人文・社会科学で 大きく思想のパクリについては 出典や原著者を明らかにして引用し あとは自分の思想をかたちづくるために これこれのように利活用しましたと言えば だいじょうぶです。むしろ そのような応用ができないということのほうが 問題です。

 勘違いをなさっています。仏典(これは 消滅していますが)なり研究書なりを自由に引用しているぢゃないですか。




 ★ 自然本性によれば⇒これは根本的な深層識を言っているのでしょうけれど
 ☆ いいえ。深層・表層は関係ありません。顔が赤らむ。動悸がはげしくなる。舌がしどろもどろになる。のことです。




 ★ むしろ、そうした深層識から〔* だとは見ませんが〕“やましい・後ろめたいことだと むしろ身が知っている。”のであれば、それは心に作用し、身に作用し、行動に作用します。したがって、悪の行為にはならない、到らないという事です。
 ☆ いいえ。このヤマシサ反応が起きているのに この反応にさからって そのさからうことをおこなう場合があります。負の善であり 悪です。

投稿日時 - 2015-09-30 21:11:49

ANo.3

>たとえば著作権。こんなものは ないとすれば パクリが自由になります。すべてパクリでもよいことになります。

・先ず一つに、著作権について。
この『著作権』というものについては、デザインなどについて言われているのだと思います。これは、パクリかどうかというものは、当事者でないと分からない事です。しかし、デザインを仕事にしていれば、『パクリ』ということは無い。むしろ、そのデザイナーのアイデンティティがそうさせません。あくまでも“オリジナル”を尊ぶ人種だからです。『偶然の一致』というものは存在する可能性は有ります。もし、作品がパクリだとしたら、それはデザイナーが生み出したものではなく、ただのペテン師が作成したものだ。そのくらい、デザイナーという職業・人種は“物真似”を嫌います。


>なぜなら 善そして悪は 主観が決めるものだからです。この主観は 最小限度において人びとに共通の要素については 共有されると考えますが――それは 善にさからう思いや振る舞いにあたっては ヤマシサ反応が起きるといった共通の要素です―― それ以上の事柄については 主観を共同化することは無理だと思うからです。

>言いかえると 問題は 人を殺すという思いを実行しようとするとき 当然のごとくヤマシサ反応が出ます。

・出ない場合もある。それは、洗脳という表現もあるでしょうし、イスラムのように『何かを護るため』と言ったような宗教的概念もあるでしょう。また、戦争などにおける戦闘員の『自国、国民を守る(お国のため)』といったこともあると思います。
原爆投下などは、人の命よりも『兵器の威力を確認してみたい』気持ちの方が勝ってしまった結果であると思います。


>この・みづからの心にさからう意志行為 これによって〔のみ〕 《わたし》はむくいを受けます。心が傷を受けます。善なる自然の心が欠けて行きます。腐って行きます。これが むくいであると考えます。

・これはあなたには言い切れないでしょう。
もしかして、心理学を説いていますか?

言いかえるなら、、、

みづからの“善の”心にさからう意志行為

となるでしょうか??

では、“善の”心を持たない者はどうなるのか?⇒悪の心が、当事者にとって善になる場合もある。

>そしてこのことは 他人がとやかく言うものではないとも考えます。 
 批判することは 自由ですが・自由なのですが その他人の考えによって 心の損傷としてのむくいがどうなる・こうなるというものでもない。こう考えます。

・これを言ったら、この質問は成り立たなくなりますよ。
あなたの独りよがりという意味にもとれる言葉ですよ。
そうではなくて、“他人がとやかく言うものではないとも考えます。”ではなくて、他人がとやかく言うものだからです。

投稿日時 - 2015-09-30 12:39:34

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ そのくらい、デザイナーという職業・人種は“物真似”を嫌います。
 ☆ これは 〔一般的に見ても〕《よき》デザイナーのことだけを言うのではないですか?

 著作権は 哲学思想としては 文章やその論旨についてのパクリの問題です。

 ですから これも 最初に考えた人の名前を出してそこからパクって考えましたと言えば 何の問題もありません。


 
 人殺しについて それを犯そうとする人間にヤマシサ反応が:
 ★ ・出ない場合もある。
 ☆ いいえ。つまり 出ない場合というのは 基本的に(生まれつき備わった自然本性としては) 出る。必ず出る。そして その後たいていは その悪の習慣に慣れっこになって出なくなったものと考えられます。

 ポーカーフェイスの場合が 分かりやすいのではないでしょうか。
 ヤマシサ反応が出なくなった事例です。言わば出るのに努力して出なくさせているのですから。


 ★ それは、洗脳という表現もあるでしょうし、イスラムのように『何かを護るため』と言ったような宗教的概念もあるでしょう。
 ☆ 要するに この場合というのは 自分の努力だけでそうなるのではなく ほかからの影響がある場合でしょうね。


 ★ また、戦争などにおける戦闘員の『自国、国民を守る(お国のため)』といったこともあると思います。
 ☆ 心理的に気持ちが高ぶっているでしょうから 容易にそのふつうの自然の感覚を少し曲がった方向へ誘いこまれる余地があるのでしょう。


 ★ 原爆投下などは、人の命よりも『兵器の威力を確認してみたい』気持ちの方が勝ってしまった結果であると思います。
 ☆ なのでしょう。なのでしょうが これらの場合もみな 基本的にはヤマシサ反応が出るのです。人ごろしで反応が出ない場合というのは 基本的にはないでしょう。出なくなるのは ヘソが曲がったあとのことですから。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >この・みづからの心にさからう意志行為 これによって〔のみ〕 《わたし》はむくいを受けます。心が傷を受けます。善なる自然の心が欠けて行きます。腐って行きます。これが むくいであると考えます。

 ・これはあなたには言い切れないでしょう。 / もしかして、心理学を説いていますか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは わたしの仮説です。《心が傷つくのは おのれのヘソを曲げたゆえの場合に限るのであって 他人のいたづらや誹謗中傷などによってということはあり得ない》という仮説です。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言いかえるなら、、、

  みづからの“善の”心にさからう意志行為

 となるでしょうか??

 では、“善の”心を持たない者はどうなるのか?⇒悪の心が、当事者にとって善になる場合もある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次のように考えるところが びみょうに違います。

 すなわち 自然本性によれば 自分の心の思いにさからうのは――そういう自由度をもわが自由意志は持っているのですが―― やましい・後ろめたいことだと むしろ身が知っている。

 ですから そのようにヤマシサ反応が起きる心の状態が 言わば善であり これにさからう同じ心ですがその意志は 善のマイナスである。と単純に 決めるのです。

 初めから いわゆる性善説のごとく人間の本性は善であるといったように規定するのではありません。


 ですから 
 ★ 悪の心が、当事者にとって善になる場合もある。
 ☆ というのは 善のマイナスが クセとなって習慣となってやがて常習犯となったときに その《傷ついた善 欠けてしまった善》がそれでも 自分の心なのだ・自分の善なのだと見なす場合を言っているのだと思います。

 マイナスの善のところを 一語で悪と言いかえれば そうなるだけのことです。

 《悪の心》などという心が 初めから――自然本性として――あるのではないでしょう。自然本性として 確乎とした善があるというのでもない。でも ヤマシサ反応を起こしてくれるなら その心は 言うとすれば善であるだろうなぁと捉えるだけのことでしょう。



 このような負の善――つまり 悪――のことについて また悪をおこなってしまうことについて:
 ★ “他人がとやかく言うものではないとも考えます。”ではなくて、他人がとやかく言うものだからです。
 ☆ ですから 表現の自由に立って互いに他の表現内容について 批判をすることは 自由です。

 問題は 悪をおこなったから 悪の結果がむくいとして必ずあなたを見舞うだろうなどと言うことは 無意味だということです。


 ちなみに おれはわるいことをやってしまった 必ずこれのむくいは受けなければならないだろうと 自分の中で自分のおこないについて言っても どうってことはないでしょう。友だちどうしででも そういったことを半ば冗談で話し合っても それほどの問題にはならないでしょう。

 問題は このような悪行ゆえに必ず悪果をまねくというような因果応報の説を さぞ理論めかしてダルマや法則ででもあるかのように吹聴するところにある。はずです。

 そんなことは 決まっていないのです。もしたとえ決まっていたとしても 人間には分からないのです。これを分かったように説くのは きちがいです。

 そうでないと言うのならば 拉致被害者やその家族の人たちに向かって おまえたちは その悪果をまねいたのは おまえたち自身の過去の悪行のむくいなのだと知りなさいと言ってみろってんだ。

 

投稿日時 - 2015-09-30 13:54:30

ANo.2

>では そのような変化する心を持っていわゆる主体としてその生をいとなむ存在は どのように捉えるのか?

・これは自ずから自身の心を自覚するしかない。
その上で、自らを省み(反省し)変革するしかない。


>では 一つひとつの思惟や行動が ふつうに自然に善であったりそして時に悪であったりするという意志行為の主体 としてのわれわれ一人ひとりの人間。この存在は さらになお 善悪という観点から どう位置づけておくのか?
>言いかえると 個々の思惟や言動としての〔特には〕悪と そしてそれを行為しそのあとに結果についても何らかの責任を一応負っている主体たる存在とは どういう関係にあるのか?

・これには、大なり小なりの作用があり、どのレベルで『善』・『悪』を定義するかというNo.1回答の冒頭に戻ってしまいます。しかし、この定義が非常に重要であるということを先ず言いたいと思います。
私たちの日常を見渡すと、そこには何もないように感じますが、様々な『法』というものが存在します。日本に暮らしていれば、当然、憲法や民法、商法など様々なものがあるわけです。他の国には、他の国独自の『法』が存在する事でしょう。
少なくとも私共は、この『法』を意識して、もしくは無意識ではあるけれどもある程度は認識して生きているのです。つまり、“法を犯す”⇒悪い行為=悪行という事になります。そしてこれには、何らかの刑罰・処罰が付いてきます。これを判断するのは、裁判官などがその任務に当たります。これは、我々が生活するうえでの一時限的な『規則』です。

さらに、様々な面においての『法』があります。それは“宗教的なもの”です。詳しくは分からない部分もありますが、イスラムの世界などでは明確にされているものがあります。そういった類の『法』です。

そして、それらの行為の中で、一番重視しなければいけないのは、『どうしてそうなったのか(そうしたか)?』といった、真理的なものを把握しないといけないでしょう。
例えば、一次元的な事例ですが、、、

自分の娘を殺害された父親が、空港でその犯人を射殺した

という事件がありました。

この場合、それまで何も“殺人”という思いなど持たない父親(一人の男)が、悲しみを持ち(地獄界)、復讐に目覚め(修羅界)殺人を犯してしまう。その結果、囚人として収監され、事実としての“殺人”といった行為に対して罰を受ける(地獄界)。しかし、犯人に復讐したことで、その男は満足して(天界)、服役する。

こういった場合、人を殺すという事は“悪”ですが、その裏には男(父親の)真理があるわけです。

>責任を負わないから 表現として《悪人》という言い方が持たれて来るのでしょうか。
それでも 責任を負わないのは 人それぞれに程度問題なのでしょうか。

・>責任を負わない、、、、しかし、何らかの行為はあったわけですよね。そして、それらは一次元的には責任を免れたようでも、実際には永遠につきまとうのです。それが“善業・悪業”であり、いずれそれらは自身の身の上に展開されるのです。いじめについても同じです。しかし、多くの人間はそれを知らないから『死ねば終わり』などと思うのです。これは、小さいからとか大きいからといった問題ではないのです。全て自身の生命より出でていれば全てが残るのです。
ですから、例え刑罰で償ったといっても、それは現行法上の事で、生命の法理上の事ではないのです。たとえ死刑になったとしてもです。たとえ自殺をしたとしてもです。これは変えられない。いずれは報いを受けるのです。“善であれ悪であれ”です。

投稿日時 - 2015-09-29 18:24:04

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ・これは自ずから自身の心を自覚するしかない。 / その上で、自らを省み(反省し)変革するしかない。
 ☆ そうなんですが・そうなんでしょうが 哲学というのは そこを屁理屈をこねてでも それらしく理論を立てるものだと思います。

 けいえす5518さんは 慣れておられないか または実践を優先しておられるのでしょう。



 ★ つまり、“法を犯す”⇒悪い行為=悪行という事になります。
 ☆ この《法》というのは 人定法のことですよね? 制定されている法律のことですよね。

 だとしたら わたしは 哲学の立ち場からは 真っ向から異議をとなえます。

 たとえば著作権。こんなものは ないとすれば パクリが自由になります。すべてパクリでもよいことになります。

 つまり このようにいわゆる悪ないし違法行為(その或る種のものに限りますが)がまったく自由であるという社会的な基礎に立ってこそ 人間の社会が築けるものと考えるからです。

 実現性の点では それが乏しいと誰もが見るでしょうから これ以上は話をすすめません。

 ただ 基本的な考え方というものはあるのではないかと思っています。




 ★ 実際には永遠につきまとうのです。それが“善業・悪業”であり、
 ★ いずれは報いを受けるのです。“善であれ悪であれ”です。
 ☆ これにも異をとなえます。

 わたしは――中立的な科学的な因果律については そのまま受け容れますが―― 因果関係について善や悪といった主観をさしはさむことは・つまりそれによる思想として成った因果応報説というのは 意味が無いと考えています。

 なぜなら 善そして悪は 主観が決めるものだからです。この主観は 最小限度において人びとに共通の要素については 共有されると考えますが――それは 善にさからう思いや振る舞いにあたっては ヤマシサ反応が起きるといった共通の要素です―― それ以上の事柄については 主観を共同化することは無理だと思うからです。

 言いかえると 問題は 人を殺すという思いを実行しようとするとき 当然のごとくヤマシサ反応が出ます。

 そうして もしこの後ろめたさ反応を押し切って・つまり心にさからってコトを起こしたとき それは もし《むくい》があるとすれば おのれの心がヤマシサ反応をおこして やめなさいと言ってくれているのに 同じ自分がこれを無視したということ。このことから・つまり 善を突き破ったということから善なる心に自分が傷をつけた。これが むくいです。いわゆる自業自得なのだと思います。

 この・みづからの心にさからう意志行為 これによって〔のみ〕 《わたし》はむくいを受けます。心が傷を受けます。善なる自然の心が欠けて行きます。腐って行きます。これが むくいであると考えます。

 そしてこのことは 他人がとやかく言うものではないとも考えます。 
 批判することは 自由ですが・自由なのですが その他人の考えによって 心の損傷としてのむくいがどうなる・こうなるというものでもない。こう考えます。



 ですから まだしっかりとは書けていませんが おのれの為す悪とそしておのれとしての存在 このふたつの関係は いま上のように考えています。

投稿日時 - 2015-09-29 21:19:38

ANo.1

>善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。

・先ず、『善』・『悪』についての定義が必要である。

>ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。

・一面をとって『善人』・『悪人』とは呼べない。
何をもって、『善人』・『悪人』とするのか、、、である。

>善人と悪人とに いったい誰が分けるのか。

・その行為の結果として、善にも悪にもなる。

  >いったい誰が分けるのか。
  
  ・定義付したうえで、しかるべき者が判断をする。

※質問者様の思考範囲外になるかもしれないが、縁を受けて瞬間瞬間変化していくのが人の心なれば、その瞬間瞬間の心を受けて言動も変化するものである。
そして、その結果、善をもたらすものもあれば、悪をもたらすものもあるでしょう。
個の人間としての生命状態には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の境涯がどれ一つ欠けることなく瞬時瞬時現れるのであるから、その人個人を指して『善人』・『悪人』の特定はできない。

投稿日時 - 2015-09-29 12:17:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ・先ず、『善』・『悪』についての定義が必要である。
 ☆ この質問では 定義は要らないと思っていました。

 というのは 《善と善人 悪と悪人》についてそれぞれの組みで善や悪が互いに共通であると一般に思われていたなら 差し支えないだろうと軽く踏んでいました。


 ★ ・一面をとって『善人』・『悪人』とは呼べない。
 ☆ これが 単純に言ってまづ 基本であるとわたしも考えます。



 ★ ・その行為の結果として、善にも悪にもなる。
 ☆ けっきょく ですから 行為じたいについても そうなのでしょうね。
 あるいは 行為を想像したり具体的な行動について考えたりするときに すでに――もしヤマシサ反応が起きて来たならば―― 負の善 つまり悪 の要素要因は現われているのでしょう。

 これは かんたんな定義にもなると思います。
 ヤマシサ反応が起きない段階では 一般にその思惟や行動は よい・善であると捉えられます。



 問い求めをすすめる上でよい材料となると思われる命題をかかげてくださいました。:
 ★ 縁を受けて瞬間瞬間変化していくのが人の心なれば、その瞬間瞬間の心を受けて言動も変化するものである。
 ★ 個の人間としての生命状態には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の境涯がどれ一つ欠けることなく瞬時瞬時現れるのであるから、その人個人を指して『善人』・『悪人』の特定はできない。
 ☆ つまり このように心は――その奥にあるわが固有の時と呼べる心は それほど変わることもないと思われますが それにしても――時々刻々と変わったりしますね。

 そのとき では そのような変化する心を持っていわゆる主体としてその生をいとなむ存在は どのように捉えるのか?

 実存の主体だと見る場合もありますし 時に主体などないのだという見解も現われましたし あるいはそれこそ《一念三千の当体》といった呼び方による捉え方もあるのだと思われます。

 この主体たる人間が ときに悪を思ったりやったりしつつこれをしかも経営しつつ生きて行く。
 だから この存在じたいは 悪人だとも単純に善人だとも呼びがたい。


 では 一つひとつの思惟や行動が ふつうに自然に善であったりそして時に悪であったりするという意志行為の主体 としてのわれわれ一人ひとりの人間。この存在は さらになお 善悪という観点から どう位置づけておくのか?

 言いかえると 個々の思惟や言動としての〔特には〕悪と そしてそれを行為しそのあとに結果についても何らかの責任を一応負っている主体たる存在とは どういう関係にあるのか?

 責任を負わないから 表現として《悪人》という言い方が持たれて来るのでしょうか。
 それでも 責任を負わないのは 人それぞれに程度問題なのでしょうか。

 こういった問いを持ちます。どうでしょう。

投稿日時 - 2015-09-29 12:50:59

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