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解決済みの質問

生活を微分したら 信仰のイメージがついて来た!?

 1. ひとの生活を微分したらどうなるか?
 それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?




 2. 《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?

 3. 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。

  ○ 《わたし》なる存在

   [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ)
   ---------------------------
   [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト)
   [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)





 4. すなわち 無神論なる信仰のばあい――《神を信じない すなわち 無い神を信じる》場合――は 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)。

 5. こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。

 6. その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。

 7. つまり 無神論者の理念は 互いに対等なる等距離外交である。
 
 8. それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが それを措くとして―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分しがたい。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。飛び飛びである。

 9. 先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。
 

 10. だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性 + α としての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。

 11. 先ほどの等距離外交なる方針に照らし合わせるなら 《大道は無門である》である。神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるところの《信念》が無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲いが無い(心の明け)。無門。もっと言えば 能天気である。





 12. なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょくオシへは言葉で表現されているからには《考える》ものであり 《非思考》にはならないので―― 思想としての信念たる義を抱いている。つまり 無神論者のタイプになる。

 13. 無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなものである。

 14. 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかラグビーボールかは知らないけれど――それぞれそのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。

 15. そのボールの――精神の遍歴としての歴史の――積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合もある。起きなくても 受け身でありアース役に成っている。




 16. たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんながみんなで人びとそれぞれの心の交通渋滞を受け留めあっており 相身互い身 引き受けてやっていたのかも知れない。心のモヤモヤは 分散し稀薄となっていたかも。

 17. 現代ではそのような人びとの互いのきづなが ほどけて来たのか。あるいは 朽ちて来てしまったのだろうか。分散・稀薄化がとどこおった。か。

 18. ここでは 有神論および無神論としての信仰の視点を推し出しまた切り口としていますが 現代の人間と社会についてさらにみなさんからご見識をたまわりたいと存じま
す。

 19. ただし質問者として納得の行くまで問い返しつつ問い求めをすすめてまいります。

 20. 取りあえずは ご自身の生活を微分してみてはいかが? といったおすすめになっていますが その点についてはどうでしょうか?

投稿日時 - 2016-04-05 11:30:11

QNo.9153973

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

さきほど、伝わらないほど不鮮明なイメージを上げてしまいました。
横420×縦315ピクセルの制限があったことを知りませんでした。
申し訳ありませんでした。
対応して再度添付いたします。

球面とのことですが、画像のため、2次元の円になっています。

15 積分たる心、について、
 微分すると信仰、[自然本性+α]:霊我:信じる:非思考の庭(ヒラメキ)がでてくる。
 積分たる心 [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト)とすると
 残された
 [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)について何らかの説明が必要です。

大変申し訳ございませんが、この投稿に添付された画像や動画などは、「BIGLOBEなんでも相談室」ではご覧いただくことができません。 OKWAVEよりご覧ください。

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投稿日時 - 2016-04-07 03:10:06

お礼

 今回の図解はきれいでくっきりです。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづ 円や球ですとか 微分・積分というのは ご承知のごとくタトヘですのでその点はどこまで数式や幾何学で表わし得るかは 微妙なのだと思います。

 せっかくですが・あるいはせっかくですので 示してくださった図式についてこちら側からは厳密に(と言っても いま触れましたように むつかしいのですが)とにかく思うところを 一方的になりますが述べてみたいと考えます。



 まづ《積分たる心》についてですが:
 ☆☆ (趣旨説明欄) 15. 〔有神論者は〕そのボールの――精神の遍歴としての歴史の――積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。
 ☆ というとき どうもわたしは 《交通渋滞》の側面に力点を置いていたようです。

 というのも 《渋滞》のないスムースな内面というのは よき心であってそれは言わば《わたしがわたしである( 1=1)》という自然で普通のワレなのだと見ます。したがって むしろ透明である。すがすがしく 遙か地平線まで晴れ上がっている心である。

 したがって 《心の渋滞》とは 《外面あるいは内面でわたしにつきまとうシガラミ( 1+β / 1-β)》である。



 《シガラミ(β)もしくは 往々にしてカザリ(γ)にさえ成り得る付加物》は みながそれぞれその心の中に――言わば精神の胃袋で何とか消化しつつ――収めているものである。

 収めていても治められないときには そのこと(βやγ)の意識がしばしば その意識の排泄のようにして・ガミガミ役のガミガミ電波として 周りの部下や目下の者に当たり散らす。

 等距離外交なる方針を必ずしも固定したかたちでは採用していない有神論者は しばしばこのガミガミ電波をアース役となってのごとく受け留めてやる。

 というふうに世の中は成り立って来ているのではないか。

 《ガミガミ役 - アース役》という連関体制のごとくに――そしてその連関が人びとのあいだで幾重にも錯綜しつつ――成り立った構造が 或る種の見方で秩序を形成し しかもそれはつねにあやうい均衡でしかないかたちをつくり成している。


 

 いわゆる引き籠もり・ニート・KYあるいはウツなどといった状態は そのようなシガラミ連関に対して はっきりとノーと言ったのだと思われます。そのように消極的なかたちながら未来社会における人間関係のあり方を模索している。

 その願いのぞむところの互いが互いに《われがわれである》関係を いまは ネガ(陰画)のかたちで示そうとしている。やがて来たるべき世界では ポジ(陽画)になるであろうと。





 示してもらった図解について 無神論者とその等距離外交は そのようにわたしも理解します。

 有神論者についてもそのエーテルのような感じになると思います。

 問題は――図の問題というよりは―― 宗教者の場合です。その思想のあり方です。かれらのシガラミとその・やけに高尚で有徳な様相をさえ見せている生活態度の問題です。

 宗教者にあっては じっさいその心の中で交通渋滞を呈していると捉えます。しかもそのシガラミが あたかも世間に誇るべきカザリと成っているかに見られます。

 カザリとなっていたのは 昔の話かも知れません。いまは シガラミやウソ・イツハリとして見られている側面がつよいのかも分かりません。

 


 つまり こうです。
 有神論者の信仰――非思考の庭なる動態――は エーテルのごとくあって 無神論者のボールなる心を包み込むと言いましたが これはあくまで《受け身》です。自然としての人との関係です。

 しかるに宗教者の場合には――信仰をではなくオシへとその布教を前面に出して―― 《自分から積極的にアグレッシヴにこの〈エーテルもどきなる波動の攻勢〉を敢行しつねにその姿勢にある》。

 ふつうの信仰者に対して宗教者は その人たちをあたかも蚕のごとく扱い 自分たちの紡いだ繭の中に押し込む。その繭たる《エーテルもどき》は 何て言ったらいいでしょうね。

 そうして宗教者は おそらく無神論者たちに対しては あたかも壁をつくる。無神論者の人たちの等距離外交をないがしろにして それを蔑み 自分たちこそが人間の中の人間であるとうそぶくかのごとく振る舞う。




 ★ 残された  [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)について何らかの説明が必要です。
 ☆ そのような宗教者の《身体;感性》というのは いったいどうなっているのでしょうか?

 ほかの信仰の人たち――《有る神》派および《無い神》派――の場合には 《身と心 身体と精神》はそれほど食い違いを生じていないと思うのです。《渋滞》はあるでしょうが 何とか収め・かつ治めていると思われます。

 緊急のときには互いにふつうに助け合っているものと思います。

 宗教者も それこそ先頭に立って 助け合いをおこなうのですが どうなんでしょうかねぇ。何だか《オシヘの押し込み・押し売り》なる振る舞いについてのアリバイづくりにやっているようにも見えます。

 宗教者の生活する姿としての《ボール》は 確かに膨張したかたちになっているかと思うんですがねぇ。そのことが 《身体;感性》の側面としてはどうなっているか? 

 《膨張している》と言うのもヘンですね。どうなんですかね。《前かがみの姿勢》でしょうか。《かたちは下手に出つつ その実は上から目線になっている》?

 つまり 等間隔ではないでしょうね。そして《狼のごとく飢えている》?

 オシヘに関しては 勉強会をひらく・あるいは互いに修行の場を持つといったおこないだけなら よいかとも思うんですが。

投稿日時 - 2016-04-07 10:07:08

ANo.2

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回答(2)

ANo.1

はい。イメージがついて来ました。

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投稿日時 - 2016-04-06 22:28:58

お礼

 ありがとうございます。

 もし《有神論者》の周りがエーテルのようなもので その中に《宗教者やその信徒》や《無神論者》の心の中の《交通渋滞》が収められているといったイメージでしたら そのとおりに思います。


 というのは 倍率を上げて見ようとするのですが 一部がボケてしまってよく読み取れないのです。

 _________   ___________ 
 有神論者          宗教者およびその信者   ・・・
 生活             生活
 ○△             ○△ □0.3.2
 _________   ___________

 こういったふうに三行目がボケてしまい 読み取りにくいのです。

 あるいは

  自然本性+α 円 y 0.2.2○△□・・・
  ・・・

 といった部分もでした。


 賛同していただいたのでしたら 光栄でありありがたいことだと思います。

 いづれにしましても 人びとのモヤモヤが晴れて行くことを 分析をつうじて 祈っていますし それが実現し得たならば その上無くしあわせに思います。この件についてはです。

投稿日時 - 2016-04-06 23:11:32

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