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締切り済みの質問

《信じる》を哲学として定義せよ

 たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。

 ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~
 
   一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ

   神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
  *1 神: 

  次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。

  *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。

  *1-2 たとえば 次のごとく:

   類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人
   __________________________
  ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン
              (梵我一如)
  ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)
              (無梵無我一如)
  ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)
              (仏仏一如)
  ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)
  ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)

  ・・・・・・・・・


  *2 
  
  非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。

  *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。

  *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。

  *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。

  *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。

  *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。

  *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。


  *3 

  対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。

  *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。


  *4 

  神の名: 前項の(1-2)などを参照。

  *5

  シルシ: (2-6)などを参照。


  *6 

  心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?

  *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。

  *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。

  *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。

  *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。

  *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

投稿日時 - 2016-04-19 17:34:33

QNo.9160913

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回答(22)

ANo.22

質問件名が問い。質問本文が問いの補足説明です。

《信じる》という言葉を質問者様が新たに作って、回答者に中身を問うています。
質問者様と回答者は別の人です。
だからわかることはありません。

しかし、質問本文1行目に 参照無しでもかまいません。とあります。
参照なしでも答えられると想定されています。
たぶん、質問者様は、わかるはずないことを問うていることを知っています。
同時に、わかるはずだと思っています。

質問本文、上から2行目から、最後までをそっくりそのまま返すと、答えたことになります。
 ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~
   一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ
   神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
ーーーーーーーーーーー省略ーーーーーーーーーーーーーーーー
  *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

質問者様の定義した《信じる》ですから、必ずあっています。
でもコピペでは、面白みが無いです。面白みの無い答えはしたくないです。

おそらく、わが心に《非思考の庭》が成る。ならば、問いに答えられるのだから、心に《非思考の庭》を成せ。ということなのでしょう。禅の公案一神教風味です。

ジェット『難しいどころの話じゃない。そんなの無理だ!バットも持たずに野球をやるようなもんだ。おおい!?スパイク!』
スパイク『そういうのが好きなんだよ。俺は』

正解がわかっていますから、質問者様と同じ答えにいけるか、試してみます。
できないことをやってみるのは結構好きです。

論理に頼ることはできなさそうです。精確に考えたい気持ちが邪魔です。
ちょっと変えてみます。
円周率はおよそ3!!(きもちわるい。)
桐島、部活やめるってよ(だれだよ桐島。)
ピルクルおいしくなくなくなくない?(だよねー。)
できました。てきとーと精確がいい塩梅です。

信じるからはじめます。きっと《信じる》と似てるでしょう。5文字中3文字おなじです。

信じるとは、めんどくさいだとおもいます。

私には一方的になかよしだと思っている野良猫がいます。
近所の公園に行くと、たまに会えます。

猫にあいたいなーと思ったとき、でも、猫いなかったら公園行っても無駄だよなーと思います。
でも、いるかもしれないし。と思います。しばらく考えてあ゛ーーめんどくせー!!となって、靴を履いて、外に行こうとしたときが猫に会えると信じたときです。

その時点から、めんどくせー!!が逆方向に働きます。行ってもしようがねーんじゃねーの?という感じで信じるをやめさせようとします。自分の歩く足のことを考えます。めんどくせーが薄まります。薄めながら公園に行き、猫を待ちます。猫に会えると信じ続けています。

ここから結果が2つに分かれます。猫が来ない場合。めんどくせーが濃くなって家に帰ります。信じることをやめたときです。
猫が来た場合、めんどくせーが無くなって、信じることができなくなります。猫がもう来たからです。

もう先がわからなくなりました。答えられませんでした。ごめんなさい。


お伝えする方法が無くて、この場をお借りします。
ギュイメだと検索に引っかかりませんでした。ギュメイ将軍が出てきます。
ギュメ【(フランス)guillemet】とするのがいいかもしれません。
蛇足失礼しました。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/jn/239867/meaning/m0u/

投稿日時 - 2016-04-22 19:27:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ギュメ【(フランス)guillemet】とするのがいいかもしれません。)
 ☆ グーの参照辞書には 《ギメ》ともありましたが 確認してみると 日本語のカタカナでいちばん近い発音は 《ギィメ》でした。お詫びして訂正します。



 さて いろいろと考えてくれてどうもありがとう。

 そうですね。

 もし賛成なら たたき台に賛成だよと言ってもらえたらよいのだと思います。
 ただし・そして これこれがちょっとおかしいのではないかとか。
 あれそれは 言い直したほうがよいのではないかとか。



 そして No.21の ways さんとのやり取りでも書いたのですが 問題は 経験できるものごととそうではないこととを区別することだと思います。

 ☆☆(No.21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 つまり 生活日常でこの世界と相対するとき ものごとが《有るか無いか》を判定したり 《これはあれへとつながっているか。どういう時間過程においてどのようなそれぞれを介して関係しているか》を認識したりするとき 《考える・疑う・確認する》を経て そのような経験的なものごとについて《信じる・信じない》を決めますね。

 でもそれは 神とは別のことではないでしょうか? 
 だって 神は見えないんですから。《有る》とも《無い》とも分かりません。
 あのことからこれがみちびかれるのかといった因果関係からまったく自由なナゾですから。

 この経験世界を超えているのですから 《考え》ても埒は開きません。
 神という言葉とわれわれは ただ無条件に相対するのみです。とちがいますか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題ではないかと考えます。


 猫がいるか・いないかは 見てみれば分かります。どちらかに決まります。

 でも 神がいるか・いないかは どちらとも決まりません。
 決まるか決まらないかが 決まらない。そういうナゾだと思います。

 だから 考えるではなく わざわざ別の言葉として《信じる》と表現するのだと。
 どうでしょうね。



 あっ。つまり この《神とわれとの関係》としての《信じる》という言葉を 実際に経験できる猫の存在いかんについても 派生的に・《思う》の強め表現として 信じるを使うのだと思います。

 

投稿日時 - 2016-04-22 21:39:29

ANo.21

「信じる」ということを考える時、「疑う」ことを考えれば、見えてきます。
すべてのことを疑うと、一人ぼっちになります。逆にすべてのことを信じると、たとえ裏切られても、幸せに気分になります。この世を肯定するか、否定するかです。信じることは、疑わないこと。相手の人を認めること。疑うことは、相手のことを否定すること。

投稿日時 - 2016-04-22 09:32:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 「信じる」ということを考える時、「疑う」ことを考えれば、見えてきます。
 ☆ それは そうなんですけれどね。

 つまり 生活日常でこの世界と相対するとき ものごとが《有るか無いか》を判定したり 《これはあれへとつながっているか。どういう時間過程においてどのようなそれぞれを介して関係しているか》を認識したりするとき 《考える・疑う・確認する》を経て そのような経験的なものごとについて《信じる・信じない》を決めますね。

 でもそれは 神とは別のことではないでしょうか? 
 だって 神は見えないんですから。《有る》とも《無い》とも分かりません。
 あのことからこれがみちびかれるのかといった因果関係からまったく自由なナゾですから。

 この経験世界を超えているのですから 《考え》ても埒は開きません。
 神という言葉とわれわれは ただ無条件に相対するのみです。とちがいますか?



 つまり おっしゃることとしての:
 ★ すべてのことを疑うと、一人ぼっちになります。逆にすべてのことを信じると、たとえ裏切られても、幸せに気分になります。この世を肯定するか、否定するかです。信じることは、疑わないこと。相手の人を認めること。疑うことは、相手のことを否定すること。
 ☆ は 有益な人生観ですよね。この世をいかに生きて行くか。

 ただし神は いかに生きたとしても・さびしく一人ぼっちで生きまた死んで行ったとしても つまり人間がどう生きどう死んだとしても それらを超えて存在しています。よね?

 人間のおこなう疑う・疑わない あるいは 信じる・信じないを超えているのではないでしょうか?

 そのとき 《わが心に受け容れる》という意味での《信じる》の出番なのではないでしょうか?

投稿日時 - 2016-04-22 10:16:43

ANo.20


ふむふむ。

 でも むつかしいかも知れない。


なめんなよ。
老いぼれ。
仏陀の中でも特に闇の仏陀の私は自己の克服に失敗した事はない。
ペットみたいな人間どもに親切にしてやりたいわけではないんだ。
聞くのはいい。
それが自己を他者にゆだねるほどの依存であれば、それは自己の意思の放棄だ。
君の質問は恥さらしだ。
君の苦情に私は答えと言うライダーキックを準備しよう。
君も仏法僧と同じく人の身の苦しさを吐露し、神を祝福している事を証明してない。
証明可能だと意地を張るなら、私の弟子としてジジイプリキュアとしてデビューしろ。

投稿日時 - 2016-04-22 01:19:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《信じる》というときには あくまでおのれの主観の内なる心の世界のみを言っている。
 神は相手としているかも知れないが ほかの人間は いない。ほかの人間の意向によって左右されることはない。その意味で 他者はいない。

 そしてこの内なる世界から外に出れば アウトである。一歩でも出たら 信じる問題ではなくなる。
 信じるを上手に説明する言葉をもって外出したとしても それはすでに信じるではなく考えるになっているかぎりで 信じるにとってはアウトとなる。


 愛するは 心の内なる世界のことでもあれば 外の世界にも足を伸ばしている。
 一般には 他者のいる外の世界において 愛は問題になる。思いやりから始まって。



 つまり 信じると愛するとは――むろん 心の問題としてなら―― 互いにつながっているし 切っても切り離すことは出来ない。かも知れない。

 でも これらのつながりを説明することは むつかしい。のとちゃう?




 ★ プリキュア
 ☆ って何だっけ? アニメのキャラ?

投稿日時 - 2016-04-22 10:04:35

ANo.19

>《存在する・しない》つまり《有る・無い》というのは あくまで経験世界におけるものごとについて言うものです。

 《信じる・信じない》というのは あくまで経験世界に存在する人の心に属する事です。
 従って、《信じる・信じない》を考える上で、

>《無限》は どうなのか? 考えたことがないのですか?
>《実在を超えている》とは どういうことか?

などという事を考える事を必要はありません。
 故に、その様な事を考えなければならないとする"質問者様の仰る意味"での

>《神とわれとの関係》

は、《信じる》などではありません。

投稿日時 - 2016-04-21 12:22:28

ANo.18

>神あるいは無限は 実在ですか?
>この問いにしっかりと答えを出してそこからまた始めてください。


 そんな問いには意味が無いと既に申し上げております。
 神が実在しないというのなら

>《神とわれとの関係》

は実在するのですか?
 存在しないものとの関係とは何の事なのですか?
 もし何の事か説明できたとしても、その関係が確かなものだという根拠でもあるのですか?
 それを明らかにしないまま

>神あるいは無限は 実在ですか?

などと言う枝葉末節な事にばかり話を持って行こうとしているから、貴方の問いには意味が無いと申し上げているのです。

投稿日時 - 2016-04-21 10:00:22

お礼

 《存在する・しない》つまり《有る・無い》というのは あくまで経験世界におけるものごとについて言うものです。

 《無限》は どうなのか? 考えたことがないのですか?


 《実在を超えている》とは どういうことか? です。




 ◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~~~~~

 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

 どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
 ないしはこれを 我慢できないであろうが 

 この矛盾を持ちこたえることができるのが 
 人格(* ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。
  (『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 投稿謝謝。

投稿日時 - 2016-04-21 10:21:05

ANo.17

>>《無限》は 《実在》しますか?

>そんな事を考えなければならなくなるよりも前の段階が問題なのですよ。
>よくよく考えてください。
>それが「思い込み」ではないと言えますか?

に対して、

>あなたは 哲学が 無理です。

と返して来る様に、質問者様はいつも御自身の考えに穴がある事を認めず、嫌な事から目を背け、(「思い込みは《信じる》ではない」としながら自分は思い込みに基づく《神とわれの関係》というものを《信じる》の定義とするなどの)ダブルスタンダードに基づく考えに固執しする事を繰り返すばかりです。
 その様な態度では哲学的な事柄を考えるのは無理というものであり、いつまで経っても真理に到達する事はありません。

 質問者様は

>神が実在している
>そんなこと 分かるわけがないぢゃないですか。

として神の存在をほとんど否定しておられます。
 又、別の質問
http://okwave.jp/qa/q9156823.html
の中では、

>神懸かりの宗教としてのオシヘまたはその神 こういうマボロシは霧が晴れるように徐々に薄れて来ています。


と述べる事で、「神」のことを「マボロシ」だとすら見做しています。
 その上、様々な《信じる》が存在する事を根拠も無く拒絶し、

>《神とわれの関係》
>《信仰》

という一般的ではない上に、神を肯定しなければ成り立たない《信じる》のみを、《信じる》の定義だと恣意的に決めつけております。
 つまり、質問者様は最初から《信じる》という概念が成り立たなくなる条件を恣意的に選んだ上で、

>《信じる》を哲学として定義せよ

と要求している訳です。
 そんなものはナンセンスとしか言いようがありません。
 質問者様が根拠も無く恣意的に制限を加えて、一般的な事について話をする事を拒否し、単なる"決めつけ"を行っているというだけの事に過ぎないのですから、その様なものは哲学の話などでも何でもありません。
 単に貴方が《信じる》という事が存在しないと見做したがっているという事を主張しているというだけの事に過ぎません。
 哲学的な考察をする事を拒否しているに過ぎません。
 最初から答を決めつけて、それが正しいと主張し、回答を拒否するのであれば、質問等する必要は何もないというのに、貴方はなぜこんな意味も無い事を繰り返しているのですか?

投稿日時 - 2016-04-21 07:23:20

お礼

 《実在》というのは 経験的な存在または現象のことを言います。

 神あるいは無限は 実在ですか?
 
 この問いにしっかりと答えを出してそこからまた始めてください。








 ご投稿をありがとうございます。






 参考:

  経験事象

    可知
      既知
      未知

    不可知 (知り得ないと証明しえたものごと。マチガヒだったと知
         り 未知に分類することになりうる)

  非経験の場 (有る無しを超えている。因果関係から自由な場。の想定。
         想定したのだから 可知にも不可知にもならない)

    非知 (実在するかどうかを知り得ないナゾ)

投稿日時 - 2016-04-21 09:26:06

ANo.16

>《無限》は 《実在》しますか?

 そんな事を考えなければならなくなるよりも前の段階が問題なのですよ。
 「『想定』が正しい」としているのですかいないのですか?

 よくよく考えてください。
 それが「思い込み」ではないと言えますか?

投稿日時 - 2016-04-20 23:31:43

お礼

 あなたは 哲学が 無理です。






 ご投稿をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-04-21 03:46:18

ANo.15

>《絶対》あるいは《無限》 この概念をよくよく理解するようにしてください。
>それらが 《実在》であるのか?
>経験的なものごとと同じように規定することができるのか?
>――つまりは 思考を超えており しかも想像の問題ではなく 無限なら無限として想定しておくよりほかに定義の仕方がない。というところに注意してください。
>つまり 《非知》の問題です。



 質問者様は御自分が一体何を述べているのかという事を良く考えて下さい。

>想定しておくよりほかに定義の仕方がない。

 それは即ち「勝手にそう思うよりほかはない」という事であり、「その様な存在だと
思い込みをする」という事に他なりません。

>《非知》

であるのなら、「どの様な存在であるのか」という事も解らないという事なのですから、それを「信じる」という事は、まさに「思い込み」をしているという事に他なりません。
 そして、その「思い込み」すらしていない「神が実在しているとは思っていない者」や「《オシへ》に従わない者」でさえ、「《信仰》している」、「《信じて》いる」とされるのですから、


>《神とわれとの関係》

は、

>他の《信じる》と同じものか、或いはそれ以下のもの
>《信じる》の例としてはあまり適切なものとは言えない
>一般的なものとは到底呼ぶ事は出来ません。

のであり、《信じるモドキ》に過ぎないものだという事なのです。

投稿日時 - 2016-04-20 22:27:05

お礼

 《無限》は 《実在》しますか?

 よくよく考えてください。


 《非知》が ヒントです。



 こんなことくらい はやく分かりなさい。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-04-20 22:32:38

ANo.14


 ★ 信じることと愛する事は重なる部分が有る。
 ☆ その命題の論証は むつかしいよ。

個人的にはこの論証を組み立てるのが近道と考えていて、ぼとぼち取り組んでいるが、まだすぐにみやげ話を聞かせる事は出来ないんだ。
他の分野では私は成し遂げて来たよね。
頑張るつもりでいる。

投稿日時 - 2016-04-20 21:39:51

お礼

 ふむふむ。

 でも むつかしいかも知れない。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-04-20 22:02:01

ANo.13

>《思う・考える》と同じ意味の言葉なら 要らないではないですか。

 それが何か本件に関係するというのですか?
 それに

>同じ意味の言葉なら 要らない

と仰るのであれば、質問者様は何故「思う」と「考える」という複数の例を挙げておられるのですか?

>同じ意味の言葉なら 要らない

のなら、どちらか1つだけで良いとお考えなのではないのですか?
 つまり質問者様の

>同じ意味の言葉なら 要らない

という主張は、「要らない」という言葉の意味を質問者様が理解していない為に出て来た勘違いであり、そんな勘違いに基づく事を主張しても何の意味もないのですよ。



>☆ そんなこと 分かるわけがないぢゃないですか。

 今更何を仰っておられるのです?
 だからこそ、質問者様の仰っておられる

>神とわれとの関係が 信仰です。
>☆ 信仰とは 非知なるナゾの神をわれがわが心に受け容れることである。そしてそのあとの動態をも言う。
>その《心に受け容れる》コトを 《信じる》と言う。

という《信じる》など《思い込み》に過ぎず、

>《考える・思う》と同様のものであり、特に《思い込み》によるもの

という他の《信じる》と同じものか、或いはそれ以下のものだと申し上げているのではありませんか。



>>《神とわれとの関係》

>こそが《信じるモドキ》に過ぎないものです。
>☆ だから 想定だと再三再四 言って来ています。

 「想定」というものは恣意的なものであり、その様な恣意的な前提に基づいた考えも又恣意的なものに過ぎ無いのですから、それは《信じる》の一般的な形に関する話などではないという事です。

投稿日時 - 2016-04-20 19:18:29

お礼

 《絶対》あるいは《無限》 この概念をよくよく理解するようにしてください。

 それらが 《実在》であるのか?
 経験的なものごとと同じように規定することができるのか?
 ――つまりは 思考を超えており しかも想像の問題ではなく 無限なら無限として想定しておくよりほかに定義の仕方がない。というところに注意してください。

 つまり 《非知》の問題です。

 これとわれとの関係を表わすのに 《考える》ではなく《信じる》という言葉がもっぱら当てられています。





 もうすでに十数回ないし二三十回は説明しています。

 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-04-20 20:43:45

ANo.12

>☆ では 《一般的な信じるの形式》とは どういうものでしょう?

 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事であり、それは《考える・思う》と同様のものであり、特に《思い込み》によるものである場合の事を指すものです。



>宗教のオシへを持って来るのではないでしょうね。
>それは ただの《考える》問題としての《信じるモドキ》です。

 いいえ、宗教の信者中には「神が実在しているとは思っていない者や「《オシへ》に従わない者」も大勢います。
 それでもそういった人々でさえ、「《信仰》している」、「《信じて》いる」とされるのですから、

>《神とわれとの関係》

こそが《信じるモドキ》に過ぎないものです。
 だからこそ

>《信じる》の例としてはあまり適切なものとは言えないという意味で同じものです。

と申しております。



>このようにツッコミを入れられる前に その論証や例証を述べるのが ふつうの対話のやり方です。

 嘘はいけませんね。
 論証なら2回目の私の回答である回答No.4以降の私の各回答に、例証なら4回目の私の回答である回答No.9にちゃんと述べられているではありませんか。

投稿日時 - 2016-04-20 13:33:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《思う・考える》と同じ意味の言葉なら 要らないではないですか。


 ★ 神が実在している
 ☆ そんなこと 分かるわけがないぢゃないですか。
 それとも何らかの特別の定義が この《実在》にはあるのですか?

 そんなことは聞いたことがありません。
 この命題(判断)は 哲学ではありません。


 
 ★ ~~~~~~~~~~
  >《神とわれとの関係》

 こそが《信じるモドキ》に過ぎないものです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だから 想定だと再三再四 言って来ています。

 《神》は 《知り得るか知り得ないが 知り得ないナゾ――つまり 非知――》として想定するものだと。
 その神とわれとの関係です。

 想定なるものであるゆえに その関係は 《考える・思う》ではないのです。ゆえに それらとは別の概念として《信じる》が 用いられます。



 もう言っていいでしょうね。あんたは 馬鹿か。いったい何度同じことを説明させれば気が済むのですか。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 嘘はいけませんね。
 論証なら2回目の私の回答である回答No.4以降の私の各回答に、例証なら4回目の私の回答である回答No.9にちゃんと述べられているではありませんか。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ これが あなたの哲学だったのですね。すばらしい。よかった。よかった。
 

投稿日時 - 2016-04-20 17:11:31

ANo.11

>《信じる》における《神とわれとの関係》は 次のように一般的な類型として 《梵我一如》なる形式で説明し得ます。

 それは特定の場合における《信じる》に過ぎないものであり、一般的なものとは到底呼ぶ事は出来ません。


>☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。

 その通り、 《有る神》も《無い神》も《信じる》の対象としては極狭い特殊なものに過ぎず、《信じる》の例としてはあまり適切なものとは言えないという意味で同じものです。

投稿日時 - 2016-04-20 07:21:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《信じる》における《神とわれとの関係》についての一般的な類型として 《梵我一如》なる形式:
 ★ それは特定の場合における《信じる》に過ぎないものであり、一般的なものとは到底呼ぶ事は出来ません。
 ☆ では 《一般的な信じるの形式》とは どういうものでしょう?

 宗教のオシへを持って来るのではないでしょうね。
 それは ただの《考える》問題としての《信じるモドキ》です。


 ☆☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。
 ☆ 神について――マチガヒのない信仰にかんして―― これら《有る神》と《無い神》とのほかには もうかたちとして現われるものはないですよ。



 このようにツッコミを入れられる前に その論証や例証を述べるのが ふつうの対話のやり方です。

投稿日時 - 2016-04-20 09:08:59

ANo.10

(再)無条件よりも無根拠のほうが適切ですね。なぜそれを根拠あるいは前提として採用しているかを相手に納得させることができないことを信じると定義するということでは。自我意識がそのよい例では。デカルトが結局コギトエルゴスムとしか言いようがなかったのもよくわかるように思います。

投稿日時 - 2016-04-20 00:51:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ なぜそれを根拠あるいは前提として採用しているかを相手に納得させることができないことを信じると定義するということでは。
 ☆ ええっとですね。

 神はなぜ《無根拠》なのか?
 《絶対》だからです。

 そういう意味では 説明し得ますし 納得の行くものでもあると思います。

 ただ 《絶対》とはどういう状態であるかとか その具体的なことは まったく人間には分からない。
 分かるか分からないかが 分からない。



 人間の存在にかんしては むしろ

  《わたしがわたしである》

 という自同律で説明されるものと思います。
 つまりは そういった相対的な・有限なかたちの自己同一性でよいものと思います。

 《わたし》たちが互いに確認され得たなら それで意志疎通には差し障りはないものと考えるわけなのですが。

投稿日時 - 2016-04-20 04:14:09

ANo.9

>その《心に受け容れる》コトを 《信じる》と言う。

 いいえ違います。
 例えば、イスラム教徒はキリスト教と同一の神を《信じて》《受け容れています》が、イスラム教徒はキリスト教を《信仰》してはいません。
 又、「神などいない。"信じる"ものは自分の力のみ」と言う人がいた場合の《信じる》もまた明らかに《信じる》の一つなのは疑う余地がありません。
 従って、《信じる》という言葉が神を対象にするのは極一部の話に過ぎず、《信仰》と《信じる》は異なる概念ですし、質問者様の

>☆☆ 神とわれとの関係が 信仰です。
>☆ 信仰とは 非知なるナゾの神をわれがわが心に受け容れることである。そしてそのあとの動態をも言う。

という仮説は、《信仰》の定義とは言えません。

投稿日時 - 2016-04-20 00:13:49

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《信じる》における《神とわれとの関係》は 次のように一般的な類型として 《梵我一如》なる形式で説明し得ます。

 ○ 《梵我一如》なる信仰類型

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ



 ☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。
 経験事象としての《有る無い》あるいは《因果関係》を超えているからです。

投稿日時 - 2016-04-20 04:03:06

ANo.8

>その神とわれとの関係が 信仰です。

 それは「信じる」という事のほんの一例に過ぎません。
 「信じる」は「信仰」などよりももっと広い意味を持つ概念です。
 従って「信じる」と「信仰」はイコールではありません。

 この違いについて理解してください。

投稿日時 - 2016-04-19 23:18:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 神とわれとの関係が 信仰です。
 ☆ 信仰とは 非知なるナゾの神をわれがわが心に受け容れることである。そしてそのあとの動態をも言う。

 その《心に受け容れる》コトを 《信じる》と言う。

 信じるは 動態用言。
 信仰は 行為をも意味としてふくんだ体言。

投稿日時 - 2016-04-19 23:26:18

ANo.7

ジジくさい外来宗教の研究に見えるんだよ、これは。
信じることと愛する事は重なる部分が有る。
その一致項から、人すらも信じると言うのが日本だ。
10年来ガミガミオジジは納得してないね。
苦情は自らが招いていると言う教えが仏教だが、ジジイには何かもっともな言い分が有ってわめいているとは私もさすがに了解している。
普遍性を土台にしているが小学生が納得出来る位のわかりやすさまでは至っていない。
わかりやすさは猿回しから始めるのが私の経験則だ。

投稿日時 - 2016-04-19 23:14:12

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 人すらも信じると言うのが日本だ。
 ☆ そういう用法があることと 哲学として理論の内にふくめてもよいかとは別である。

 《神わざ》というのは 一般にあたかも神がおこなったかに見える・人間のわざを言います。

 だからと言って 神は 人間のあいだに普通にそのハタラキを持って存在している――とまでは言わない。

 むしろ 人間との違いをきちんと捉えているからこそ そういった表現が持たれて来る。

 《信じる》も同じではないだろうか。




 ★ 信じることと愛する事は重なる部分が有る。
 ☆ その命題の論証は むつかしいよ。

投稿日時 - 2016-04-19 23:22:36

bragelonneさん この回答を最後に私は、この質問から身を引きます。

「★ ~~~~~~~~~~~~~~
 このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」

 このことが「信じる」ということであり、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よく飲み込めませんが 《実在の人物》であるなら 《歴史的に存在した》というのは ただの言い換えです。

 それがどうして《信じる》ことなのか?」

それでは、bragelonneさんは、私が現在、存在していることを肯定しますか?

ネットの仮想空間でのやり取りで、顔も声も聞こえません。

私の心の中に住む、私の祖父母が存在したことは?

bragelonenさんは、もはや会う事はできません。

歴史小説などを読むと、中学校や高校で習う、歴史上の人物が、良くも悪くも描かれています。

例えば、新撰組を肯定しますか、否定しますか?

bragelonneさんは、そんな人達は存在しなかった?

イエスも仏陀も何千年前に生きた人です。

存在を認め、その言い伝えを「信じる」か。

では、おやすみなさい。

投稿日時 - 2016-04-19 22:41:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 残念ながら 意味不明です。


 あなたには 生みの親として 父および母があります。
 その父母それぞれに 両親があります。
 あなたの祖父母です。二筋あります。

 こうして祖先にさかのぼって行けます。

 その過去の人たちについて 実在したと捉えます。

 そのように世界は認識されています。

 ということですが そこには《信じる》という問題は出て来ませんよ。


 では おやすみなさい。よい夢を。

投稿日時 - 2016-04-19 22:50:05

ANo.5

明確な物理的因果関係の把握をせず、特定の
原因ないし結果を先入化した判断をする事。

投稿日時 - 2016-04-19 22:16:28

ANo.4

>★ 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。
>☆ それぢゃ 《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。

 まさにその通り。
 《考える・思う》と同様のものであり、特に《思い込み》によるものである場合の事を指すものです。



>おそらく《神を信じる》という場合の《信じる》の意から派生させ応用した用法なのでしょうね。

 いいえ、それは逆ですね。
 「信じる」の「信」の字が「人偏」である事からも判る通り、《人を信じる》という場合の《信じる》の意を応用する事で、《神を信じる》という用法が派生したに過ぎません。
 「信」の字の形は「『もし自分の言った事に嘘があれば刑罰を受けても良い』という宣誓の言葉を人が口にする」という場面を表しており、「その様な宣誓をするくらいなのだからその人物の言う事は真実だと考えても良いであろう」という事から「信じる(信用する)」という意味を持つ様になったものです。
 貴方は、「『神が嘘を吐いた場合の事』を想定して『その様な時には神に刑罰を与えよう』」と考えておられるのですか?

【参考URL】
 「信」という漢字の意味(名前・名付けの意味)・成り立ち・読み方・画数
  http://okjiten.jp/kanji393.html



>《強く思う》と言っているわけです。なぜなら 《信じる》には ゆるがない何らかの関係が――むろん神とわれとのあいだに――あると見られていて そのことをふつうの経験事象にも応用しようとしたに違いない。

 それはまさに

>《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。

そのものではありませんか。



>ですから なんらかの《非経験の場》についての受け容れとしての《信じる》があって それとは別次元で・そのほかのことがらについての応用が派生した。
>このように推し測られましょう。

 それはまさに

>《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。

そのものではありませんか。



>この原義とその応用とを区別しないと 用を成さない。

 元々違い自体が無いのですから、区別など付けてはいけません。
 質問者様のその様な考えは用を成しません。

投稿日時 - 2016-04-19 22:04:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《かみ》というのは そもそも目に見えないものです。

 一例として昔の人の定義をかかげておきます。:
 ▲ (宣長:古事記伝) ~~~~~~~~~~~~~~
 凡(すべ)てか迦微(かみ)とは

 古御典(いにしえのみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、
 又人はさらにも云(い)はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、

 尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。


 すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、
 悪(あし)きもの、奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ ただしこの定義に従うことを意味しません。
 なぜなら たとえば山が神だという。かむなびやま。やまつみ。
 あるいは 大きな石。いはくら(磐座)。
 あるいは そのほかもろもろの ものごとが神だと言う。

 そのとき それらモノ・コトは あくまで神の――霊の――依り代であるに過ぎないものだからです。

 依り代というのは 神が仮りに現われたと見なして捉えたもの。すなわち 偶像のことです。

 別様に言いかえると 神という正解を問い求めて行く過程で 偶像ないし依り代として補助線を引いたということです。
 補助線が 神そのものではない。こういうことです。


 山や海や神の宿る大木や何やかやのモノ・コトは 神本体を指し示すシルシだということです。

 ですから 経験事象としてのモノ・コトについては 人間は《考える・あるいは認識する》のであって 信じるものではありません。《信じる》ものは その補助線・依り代・偶像がシルシとして指し示すその先の何ものかなのです。

 だからわざわざそのために 《信じる》という漢語を用いるようになった。
 《信》が そう読まれるように 《まこと〔と思う〕》というような表現であらわしたものと思われます。
 《真(ま)・事(言・こと)》というのはこの場合 仮りに依り代と見なしたモノ・コトの奥にあると想定される神のことでしょう。

 この非知なるナゾとしての神は 人間が思ったり考えたりしても・つまりいくら強く思い入れしようとあるいはけなそうとも 何の影響も受けません。

 その神とわれとの関係が 信仰です。


 この違いについて理解してください。

投稿日時 - 2016-04-19 22:36:00

bragelonneさん こんばんは。

独自の哲学作りには、論理が必要と思いますが、宗教を肯定する私には、bragelonneさんの主張は、ファリサイ派かサドカイ派か、分裂した仏教の教えのように感じます。

熟読したわけでないので大きなことは言えませんが、ホワイトヘッドの下記の言葉を私は肯定します。

「仏教とキリスト教は、その起源を各々の歴史における二つの霊的満ちた時のうちに見出す。すなわち、仏陀の生涯とキリストの生涯である。仏陀は世界を開覚するために自らの教説をあたえ、キリストは自らの生命をあたえた。教説をそこから導き出すのはキリスト教徒がしなければならないことであり、また、おそらく、究極的には仏陀の教説のもっとも価値のある部分は、彼の生命をいかに解釈するかであろう。」

ホワイトヘッドは仏教を過小評価し批判的だったそうですが、上記の言葉は、的を射ていると思います。

つまり、私に言わせると、bragelonneさんがキリスト教において、エレミヤの予言が、どーのこーの、と、こだわるのでなく、神などという、人間の目には見えず、カントに言わせると、物自体は認識できないのだから、理性の越権行為だなどと、うんぬん理屈を捏ね回すのではなく、キリストとしてイエスという神が「人間」という「目に見える姿」で現われたという歴史的事実。

仏陀という「人間」が確かに存在し、菩提樹の木の下で悟りを開いたという歴史的事実。

このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」

このことが「信じる」ということであり、

また、イエスや仏陀の生き方を共感すれば、「この世で良識ある人生を暮らせる」ということも「信じる」に価することであることであると私は思います。

私は死後に天国や極楽などで暮らすのは退屈そうなので、カトリック教会の教えの「本の沢山置いてある煉獄」に行き、死後も研究を続けます。

ファウスト2世より

マルガレーテ命(笑)。

投稿日時 - 2016-04-19 21:28:30

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 例によって 自由にツッコミを入れてまいります。

 ★ ホワイトヘッドは仏教を過小評価し批判的だったそうですが、上記の言葉は、的を射ていると思います。
 ☆ ええっとですね。
 この評論は ただ外形を捉えようとしただけなんです。家を外からながめてその間取りや構造がどうなっているかを憶測した。というものではないのでしょうか?

 つまり
 ▲ 霊的満ちた時
 ☆ の中身は どう捉えているのか?

 ▲ 世界を開覚する 
 ☆ とは 具体的にどういうことを言うのか?

 ▲ 生命
 ☆ を あまりにも安易に持ち出し過ぎでは? もしちゃんと述べているのなら そこのくだりを引用してください。

 あとのほうで:
 ★ 悟りを開いたという歴史的事実
 ☆ そのさとりの中身を明らかにするまでは ただの推理文学です。





 ★ 神などという、人間の目には見えず、
 ☆ これが 違うんです。《人間がその能力によって知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾ》というのは 《知り得るかも知れない》のです。その可能性を――《不可知》とは違って――残しています。

 だから 《おれは神を見た》という主観は その主観内にとどまるかぎりで 認められることになります。《神を見た》というその主観内容を 否定して証明することは出来ないからです。

 ただし おれが見たのだから おまえもそれを承認せよと言っても それはその相手の自由です。この場合の自由というのは たとえ よっしゃ おれは承認してやるぞと言っても その承認が 人びと一般の――定説のような――了解事項にはならないかたちにおいてなのです。

 なぜなら もし或る人が見たという神を別の人が同じく見たというなら その神はすでに《可知の領域にあって既知となります》。つまりは 非経験の場ではなくなり 経験事象だとなるからです。


 ★ カントに言わせると、物自体は認識できない
 ☆ そういう想定を言ったまででしょう。自分の理論をみちびくための作業仮説のようなものです。それは それだけのことです。


 ★ キリストとしてイエスという神が「人間」という「目に見える姿」で現われたという歴史的事実。
 ☆ ナザレのイエスは 人間ですよ。父がヨセフで母はマリア。

 このイエスが実在の人物であったことは おおむねみとめられているようです。(否定説も出ています)。

 ここで問題は 《キリストとして》という規定です。これは 神の子であり神そのものを言うのですから この規定は 想定なのです。非経験の場を・つまり経験世界を超えたところとして 想定しているものです。

 先ほどの既知なる可知でもなく不可知でもないところの非知なるナゾとして想定されているものです。

 そのままでその神学の中身が 現実であるなどとは到底言えません。
 キリストが指し示した神――普遍神です――を信じる場合の信仰は どのように成り立っているのか? と問うた場合に 想定事項として説明するのが 神学です。

 霊――つまり 非知なるナゾ――というだけでは 一般の人たちへの説明として埒が開かないのですから いろいろと弁明します。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」

 このことが「信じる」ということであり、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よく飲み込めませんが 《実在の人物》であるなら 《歴史的に存在した》というのは ただの言い換えです。

 それがどうして《信じる》ことなのか?


 ちなみに キリストなる神が 肉となって イエスなる人間において存在したというのは 神の想定からみちびかれたさらなる想定です。そういう想定としての神学です。よ。

 信じるのは そういう想定そのものではありません。想定は 言葉≒概念で説明するものですから 経験的な思考の問題です。
 《信じる》のは そこに想定されたという《非知なるナゾ》のほうです。言いかえれば ナゾとして《無根拠》のことです。信仰は 《義無きを以って義としている》のです。



 

 ゴータマ・ブッダは ただの人間です。

 ★ また、イエスや仏陀の生き方を共感すれば、「この世で良識ある人生を暮らせる」ということも「信じる」に価することであることであると私は思います。
 ☆ その《生き方》を明らかにしないことには そうだとも・違うとも何とも言えません。

 漠然とした世の中の風評ないし思潮としてそうだと言うに過ぎないでしょう。



 ★ 煉獄
 ☆ も 文学ないし心理学の問題です。

 ★ マルガレーテ
 ☆ は 大ざっぱに言ってしまえば 悪人ですよ。だったのです。



 

投稿日時 - 2016-04-19 22:11:00

ANo.2

無条件の前提として何かを採用することでは。

投稿日時 - 2016-04-19 18:59:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 こちらからもツッコミを入れます。

 ★ 無条件の前提として
 ☆ という場合には その前提としてこの《無条件の》という場合とそのほかにも《条件をつけての》という場合とがある。と考えられて来ます。

 つまりは 《条件をつける》ということは その対象となっているものごとが 《考える》ものであると言っています。無条件という場合にも 《考えた結果》そのように決めたわけです。
 ――つまりは 《信じる》とは違っている。ということになるはずではありませんか?

 無条件というよりは 《無根拠》においてその《無根拠》そのものをわが心に受け容れる。――と言うとよいかも分かりません。どうでしょうね。

投稿日時 - 2016-04-19 19:51:35

ANo.1

 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。
 「神」であるのかどうかなど関係の無い話である。
 何を信じるかは人それぞれであり、個人個人が何を信じるかは完全にその個人の自由であり、個人によって恣意的に決められる事柄に過ぎない。

投稿日時 - 2016-04-19 18:02:11

お礼

 ご回答をありがとうとございます。


 ★ 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。
 ☆ それぢゃ 《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。

 ★ 「神」であるのかどうかなど関係の無い話である。
 ☆ というのは おそらく《神を信じる》という場合の《信じる》の意から派生させ応用した用法なのでしょうね。

 あの人を信じます。わるい人ではありません。わたしはよく知っているのです。――といったように応用がなされますね。
 《強く思う》と言っているわけです。なぜなら 《信じる》には ゆるがない何らかの関係が――むろん神とわれとのあいだに――あると見られていて そのことをふつうの経験事象にも応用しようとしたに違いない。


 ですから なんらかの《非経験の場》についての受け容れとしての《信じる》があって それとは別次元で・そのほかのことがらについての応用が派生した。
 このように推し測られましょう。

 この原義とその応用とを区別しないと 用を成さない。こう考えますが どうでしょう。

投稿日時 - 2016-04-19 19:45:41

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