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解決済みの質問

インド哲学では 《自己と自我は違う》らしい。

 ▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・チッタ)とは峻別されています。

 (い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調されています。

 (う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。


 (え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。

 (お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。


 (か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因も持ちません。 ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。

 (き) それに対して 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ その我執があらゆる迷妄のもととなり 人を苦しみの輪廻的な生存に縛りつけるのです。

  (『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008  pp.149-150 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。

 (け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。

 (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。

 みなさんの読みは いかがあい成りましょうか?

投稿日時 - 2016-05-07 11:28:57

QNo.9168992

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

チッタとプルシャの違いとか、言ってはなんですけど初歩ですよね…。
割り算と掛け算がわからないと言っているようなものです。

プルシャはプラクリティと対になる概念で、
チッタはプラクリティに属しています。
つまり根本的に別物です。

私がプルシャで、あなたがチッタだった場合、
私はあなたを通して世界を見ていますが、あなたは私ではありません。
そういうことを言っているのです。

わかりにくければ、チッタというのがドローンで、
あなたが操縦主だとでも思えば良いでしょう。
それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。
あなたはあなたで、ドローンとは根本的に別物であることは明白ですよね。
そういうことです。

投稿日時 - 2016-05-08 07:15:55

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 全体としてですが:
 ★ プルシャはプラクリティと対になる概念で、
 ☆ あって これは言わば二元論ですよね。

   プラクリティ:物質原理
   プルシャ: 精神原理



 あるいはつまり プルシャは ときに《神我・自己》と訳され把握されます。

 したがってこれは 霊我と捉えられるアートマンに当たると言えるかも知れません。知れませんが しかしながら プルシャの場合にはあくまでそのプルシャとは別に・しかし同じ次元で プラクリティが並び立っているわけです。

 しかるにアートマンは 一元論です。宇宙の主宰神ブラフマンのその霊と一致しています。そのほかに――いまの範型にあっては―― 神や霊はいません。(ヴィシュヌやシヴァ神を取り上げなくても いまの議論は成り立ちます)。

 

 次に:
 ★ チッタ(心)はプラクリティに属しています。
 ☆ と言えるかも知れませんが つまりその宇宙観によると 物質原理がユラギを起こしてむしろ精神作用としてのチッタを生じさせる。

 ということかも知れませんが その場合のチッタはあくまで身(カーヤ)としての器官であると見られます。

 ですから 宮本啓一の整理によれば 身心(チッタ・カーヤ)をまとめたかたちで アハン( aham = ego )すなわち《わたし》のことだと捉え ここではただし《自我 ego 》という訳語で説明している。

 したがって この生まれつき備わった身と心とからなる自然本性のさらに上の次元のことについては アートマンという概念ひとつにまとめて言っている。

 言いかえると この霊我なるアートマン(その背後には ブラフマン神)ひとつのもとに言ってみれば《プラクリティとプルシャとをまとめてひとつの原理として》捉えている。はずです。





 ★ ~~~~~~~~~~~
 わかりにくければ、チッタというのがドローンで、
 あなたが操縦主だとでも思えば良いでしょう。
 それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このタトヘは むつかしいです。

 なぜなら 人間の場合は 《ドローン》が身心(チッタ・カーヤ)であって 《操縦士たるわれ》と切っても切り離せない一体なる《存在》であるからです。

 ★ それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。
 ☆ それが 言うのです。ぜんぶ《わたし》でしょう。


 と考えます。
 
  

投稿日時 - 2016-05-08 12:01:28

ANo.6

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回答(13)

ANo.13

不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。

たぶん、質問者様のあやまりは、矛盾が悪いことだと思っていることです。
けどさー矛盾してたって味があるし、100%悪いわけじゃないじゃん。
不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。
でも面白いじゃん
不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。

でさーkagakusukiさんと質問者様で結局物別れになったっぽいかもしんないけどさー
矛盾が悪いことだと思っているってゆーことで同意できるっしょ?
じゃあ、矛盾が悪いことだと思ってていいじゃん。
同意できるじゃん。
話ができたじゃん。
不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。

つーかさー俺に聞くなよなー
もし、答えなかったら質問者様があやまってないってことになんのかよー
俺に質問者様があやまってないってのも、あやまってるってのもわっかんねーよ
困るんだよ!
不悪苦!不悪苦!不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

あとさー自我あったほうがさー
決定!ってなったとき、自己の決定?それとも自我の決定?ってちょっと考えるじゃんか。
でもさーちょっと考えたときに、もっと状況わるくなるかもしんねーじゃん。
自我いるかいんねーかわかんねーよ
状況によるんじゃねーの?
困るんだよ!
不悪苦!不悪苦!不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

でさー感情に任せて文を書き飛ばすのはめちゃくちゃきもちいいいいいいんだよ!
困るんだよ!
不悪苦!
汚い矛盾したあやまった言葉を使いましたごめんなさい。

スパイク 「どっかのブルースマンが、ブルースの定義を聞かれてこう言ったそうだ。『ブルースってのは、どうにもならない困り事を言うのさ。』」

参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=sOEUJ6rDQN0

投稿日時 - 2016-05-15 19:35:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 不悪苦
 ☆ 分からなかったけれど 《不悪口》のことですね。

 
 ★ 自我いるかいんねーかわかんねーよ / 状況によるんじゃねーの?
 ☆ もし必要ならば 誰かが使って普及して行くでしょうね。

 その時というのは きちんと定義して使うということだと思います。

 むろん 多義性をひとつの言葉が持っても構わないでしょうが 一つ基本となる意味として定義してあることが大事だと考えられます。

 いまは 少なくとも哲学では あいまいであると考えます。しかも使う必要がないとさえ思っています。



 ★ たぶん、質問者様のあやまりは、矛盾が悪いことだと思っていることです。 / けどさー矛盾してたって味があるし、100%悪いわけじゃないじゃん。
 ☆ そりゃあ現実には いくらかの矛盾があります。

 電力を原子力発電に頼るかどうか。

 クルマの燃費を悪い事実のまま発表しては売れない。

 企業や政治は 矛盾をかかえつつ判断し決定しなければならない。

 
 ただですね。哲学では そういうわけには行かない。なぜなら 矛盾をかかえて総合的に高度な政治的決断をするというのは その選択肢をそれぞれきちんと整合的な内容および結論として提出したそのあとのことだからです。

 初めから矛盾した内容をもった政策や方針を出すというのは いただけません。

 そういうことではないのですか?




 かがくすき氏のことについては 問題としていません。すでに同じ物別れが四・五回ありました。

 


 ★ スパイク 「どっかのブルースマンが、ブルースの定義を聞かれてこう言ったそうだ。『ブルースってのは、どうにもならない困り事を言うのさ。』」
 ☆ きちんとした定義をしているぢゃないですか。そういうことではないのですか?


 

投稿日時 - 2016-05-15 21:26:50

ANo.12

読みは 読みづらいとあい成りました。
ごめんなさい。

自同律の適用範囲はどうなってますか?
no.1のお礼欄2行目によりますと
《存在》と《わたし》は自同律適用と分かります。
たぶんno.1、3,4,5,7,8,9,11のkagakusukiさんは全体に自同律適用と考えています。
意見の相違は自同律の適用範囲のためと思われます。
単語が多すぎて、総当りで考えるのは無理です。
たぶん、自同律が適用されない単語があります。
1個以上の名詞を選んでいただいて、この名詞には自同律は適用しない。
と決めていただければ、すべて矛盾は消滅します。
自己、アートマン、プルシャ、self、身心、カーヤ・チッタ、自我、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《自己》、《アートマン》、《霊我》、《非経験の場》、《非思考の庭》、《ブッダター(仏性)》、《自己・わたし》、自我、身心、《自己・わたし》


no.7の回答のお礼欄の最後のほうで
わたしがこれこれこう言っているというその内容を 話の過程において理解しない・拒絶するというのは いただけません。
と書かれています。
書いた後、どうして理解しない・拒絶するのかを考えるのをやめたのは、
自我があるからですか?それとも無いからですか?どちらともいえないですか?

投稿日時 - 2016-05-15 11:53:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 1個以上の名詞を選んでいただいて、この名詞には自同律は適用しない。 / と決めていただければ、すべて矛盾は消滅します。
 ☆ 《わたしはわたしである》という自同律で定義ないし説明する言葉≒概念は 次です。:


  ○ 自己・(その意味での self )・わたし・われ

 存在の全体を言うこれらの《自己・わたし》のほかにその部分的な場や機能として次があります。:

  ○ 自然本性(=これが 身と心とから成る)
    ・身と心:カーヤ・チッタ;身体と精神



 もちろん《部分的なもの・ことでも それのみに限れば これはこれだ あるいは精神は精神だというように自同律は当てはまります。

 いまは ひとという存在の全体観を求めています。

 そこでさらにそして ところが人間という存在は この《身心としての自然本性》だけから成るか? という問いが持たれます。

 特に論議を添えませんが かなり一般に《生まれつき(=自然本性として)人には ブッダター(仏性)がやどる》という捉え方が成されています。

 この見方をさらに添えるなら 次のように成ると考えられます。仏性というのは これこれですよと目の前に差し出して示すことが出来ないものですから その《宿ること》は 想定に成ります。:

  ○ 自然本性+α の α としての《アートマン(霊我)》:

    ・アートマン(霊我)
     =ブッダター(仏性)・タターガタ・ガルバ(如来蔵)
     =神の霊(ルーアハ;プネウマ・プシュケー;アニマ・スピリトゥス)


  ○ この《+α としてのアートマン》の宿る場を:
    ・ 非思考の庭――けっきょくは 信仰という動態――と呼ぶ。

    ・ 《考える》は 《心・精神》のハタラキ。
      《信じる(心に受け容れる)》は 非思考の庭のコト。

  ○ さらに非思考の庭が何を受け容れて(信じて)いるのかと言えば:
    ・ 非経験の場・非知なるナゾ;神(たとえば ブラフマン神など)


 ☆ このようにして《自己・わたし》は――想定じょう――拡大され得ます。その限りで ただの身心(自然本性)だけの存在ではないと見ることになります。



 もし問題の《自我》が 《身心》のことのみを言うとすれば 別段この自然本性のことをわざわざ自我と言いかえる必要はない。と考えての問いかけです。要らないではないかと。

 じっさいほかの意味もまとわり着いて来ていて やっかいです。あいつは自我が強いと言った場合には 押しが強いことであったり 世の中の風潮に押し流されずに自分をつらぬこうとするヤツだといった意味に用いると思われます。


 ☆ 《プルシャ》は 精神原理と訳され捉えられていますが 上の《非経験の場》を物質原理のプラクリティとあたかも二分して 二元論を成していると見られます。

 《非知なるナゾ》に ふたつの《神》が相い並ぶようなことですから それは考えられません。なので 摂りません。(これは No.6のやり取りで少し触れています)。





 ★ (No.7お礼欄の最後のほうでの質問者の書き込みをめぐって)~~~~~~~
 〔回答者が〕書いた後、どうして理解しない・拒絶するのかを考えるのをやめたのは、
 自我があるからですか? それとも無いからですか? どちらともいえないですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう場合にも確かにこの《自我》という言葉を使います。単純に言って《我が強い》という意味に用いているのだと思います。

 用いないでも説明がつくと考えます。

 この問い自体につきましては こう考えます。:
 忘れっぽいからでしょう。

 もっとも こちら(質問者)が 気をつけてくださいと声かけているのに それをも無視するのは いただけません。

 よほど自分の意見に自信があるからなのか。それとも 相手(=質問者)のことをないがしろにしてもよいと思っているからなのでしょう。

 あなたは どう考えますか? このかがくすきさんの回答へのわたしの取り扱いについて あやまちがあると思ったら おしえてください。

投稿日時 - 2016-05-15 13:48:02

ANo.11

最近君はこのカテゴリーへの積極的参加を再開したね。
それは喜ばしい。
さて質問にある古代インドの君の見解とは別に私なりの検証もしたりはした。
質問に答える代りに私の独自研究の過程を結果報告しよう。
自我論が東西や、学問的に宗教、哲学、心理学と、異なる見解からアプローチされる中で整合性のある結論が見出されていない。
完結していない事への古代インドの研究について考えているのが今回の君の質問だ。
私は観念を観念世界として展望する。
観念世界は心象世界とも言えるね。
それは孤独な一人の世界じゃなく、確かに観念でも他者の意思、そして神が案内する森羅万象の精霊の声、このようま交わりが有る。
ようするに心は直接他者とっ交わることができて、対話なり取引なりが全てじゃない。
契約社会の西洋の神学なり哲学は、人間が生きるにあたって心の交わりを後回しにしたから、西洋由来の哲学では、神に信を置くだけでなく、人と人がお互いに信を置く事を否定的とすら言えるほどないがしろにしていた。
人が人である事をお互いに認めないと人間ではないが、その点が信仰の風土でいまだに部族社会的なんだ。
敵に回る人間がいる。
殺してもいい人間がいる。

投稿日時 - 2016-05-10 01:15:42

お礼

 《インドの哲学では》という議論の進め方。これは きわめて簡単なことを扱った部分のみを引き合いに出している。

 そして言おうとしていることは 《自我》は要らんということだけである。


 

 ★ ようするに心は直接他者とっ交わることができて、対話なり取引なりが全てじゃない。
 ☆ この場合の《直接》というのは 言い過ぎぢゃないか?
 どう考えても 向き合ってはいないし相手の言葉を――相手本人から――引き出してはいないからには 間接的なマジハリである。
 ――かんたんなことだけれど。



 ★ 契約社会の西洋の神学なり哲学は、人間が生きるにあたって心の交わりを後回しにしたから、
 ☆ そうなのだけれど・一般の傾向はそうなのだけれど 他方で《センスス・コムニス(共通感覚)》ということを 盛んに言っている。

 特に文学などでは《感性ないし情感》の世界のことも よく扱っていると思う。
 《自然》は 《交感(コレスポンダンス)》しているであるとか。



 読んで感じたことをつづっているけれど もうひとつ。:
 ★ 観念世界は心象世界とも言えるね。
 ☆ ふつう《観念世界》と言うと 哲学での観念論ということになるのだと思う。

 あるいは《心象世界》に近づけて捉えるとしても 文学の世界として想像力を駆使しいろんな《非現実》を思い描いてみるといったことを意味するのかなとは思った。

 つまり ここでの心象世界というのは 人びとの存在が自分の心に入って来ることがあり いつでも推定による対話さえが出来るといった《わが時間》のことではないか。

 微妙なことだけれど 《観念》というと どうも一たん現実とは離れるというイメージがある。その点 表現の問題だけれど 注意するほうがよいと思った。



 末尾の言いぐさは何だ。




 ご回答をありがとうございます。
 

 

投稿日時 - 2016-05-10 07:09:38

ANo.10

>身心は切っても切り離せないわたしの成り立ちとしてあります。
>わたしを自己と言ってもよいわけです。(広義においては そうです)。
>――となれば 身心をいちいち自我と言う必要は どこにもない。こういう意味です。
>《身心は要る》というよりも 身心からわたしは成り立っています。
>身心をわざわざ自我と言う必要はない。つまり 自我という言葉は要らない。こういう意味です。


 その考え方がもしも正しいとしたならば、質問者様は

>《わたしはわたしである》。つまり いま・ここでそう言っている(自称している)行為主体のことを言う

としているのですから、《自己・わたし》という概念や表現は《要らない》としなければならない立場にあるのにもかかわらず、

>(こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。

などの様に幾度となく《自己》や《わたし》という表現を使用しています。
 これは「わざわざ言う必要はない」という事が「(表現や概念が)要らない」とする理由にはならない事を示しています。
 特に、(こ)に関しては「自我は要らない」という質問者様が強引に持って行きたがっている結論に関わる所なのですから、《自己》や《わたし》という「わざわざ言う必要はない」表現を使用している事は「要らない」とする事に反しており、大きな矛盾です。
 つまり、質問者様の仰る事は最初から矛盾している訳です。
 矛盾のある話は命題とはなり得ません。
 従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。




>もうこれで 客観的な証拠は出来上がりましたので

 もしそう思っておられるのであれば、質問者様のお話は最初から結論ありきの話だったという事になりますから、疑問でも問いでもなく、単なる個人の考えを主張しているだけという事になります。
 このサイトはQ&Aサイトであり、そのような単なる主張を行う場などではありません。
 その様な単なる主張を行う事はこのサイトでは禁止されている行為なのですから、貴方はこの件に関して投稿してはいけなかったという事になります。
 ですから、今後、その様な質問ではない事柄を投稿したいのであれば、このサイトの様なQ&Aサイトに投稿する事は厳に避けて、2chの様な何でもありのサイトで主張する様にすべきです。

投稿日時 - 2016-05-08 19:07:11

ANo.9

>★ では、質問者様は、「霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)」とは、身心の事であると仰る訳ですね?
>☆ どこをどう読めば そういう理解になりましょうか。

 私が

>それならば、《自己》と《自我》はイコールではない以上、《自己》と《自我》はそれぞれ別の概念であり、別の概念である以上はそれらは区別して扱わねばならないのですから、《自己》と《自我》の事を取り扱うためには、《自我》という表現と概念を、《自己》という表現と概念とは別個に設ける必要がある

とした事に対して、質問者様が、

>わざわざ自我と言うこともなくなる。

と否定しておられるからです。
 《自己》と《自我》が別の概念であるという事を否定しておられるという事は、即ち、質問者様は、「自己とは自我そのものであり、自我以外の要素は含んでいない」と見做している事になりますから、

>身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える
>《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって

としている以上は、

身心=自我=自己=霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)

という事になりますから、

>★ では、質問者様は、「霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)」とは、身心の事であると仰る訳ですね?

という事になるではありませんか。
 つまりは、

>いったいどこをどうクリックすればそんなページが開かれますか?

という事に関しても、質問者様の話をクリックして行くと当然その様なページが開かれる事になる訳です。
 それは質問者様の話が破綻しているために起こる当然の帰結であり、それはその様な破綻した話をしておられる質問者様の責任なのですから、私に文句を言うのは筋違いと言うものです。


>これは次のように 二つの事項を《自己・わたし》が含むと言っています。

 含むという事はそれが全てではないという事を意味するのが一般的な話しなのですから、

>《自己》と《自我》はイコールではない以上、《自己》と《自我》はそれぞれ別の概念であり、別の概念である以上はそれらは区別して扱わねばならないのですから、《自己》と《自我》の事を取り扱うためには、《自我》という表現と概念を、《自己》という表現と概念とは別個に設ける必要がある、つまり、《自我は要る》と仰っている事になるではありませんか。

と申し上げている訳です。
 そして

>それは、質問者様が仰っている

>>つまり 自我は要らない。

>とは真逆な話しであり、質問者様の仰る事は話が進むたびにどんどんと矛盾が生じてばかりいます。
>矛盾のある話は命題とはなり得ません。
>従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。

と既に申し上げた筈です。
 何故そんな簡単な事が解からないのですか?


>★ コンピュータが計算を行うためには・・・(省略しました)・・・
>☆ については 《コンピュータに計算を行なわせるためには》 わたしの身体と精神とが要ります。自我は いちいち言う必要はありません。なくても済みます。

 質問者様の話は矛盾しておられます。

>身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える

即ち、

身心=自我

とした上で

>身体と精神とが要ります

としているのですから、「自我(=身心)は要る」という事を仰っておられる事になります。
 それは、質問者様が仰っている

>つまり 自我は要らない。

とは真逆な話しであり、質問者様の仰る事は話が進むたびにどんどんと矛盾が生じてばかりいます。
 矛盾のある話は命題とはなり得ません。
 従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。

投稿日時 - 2016-05-08 15:16:32

お礼

 ★ 「自我(=身心)は要る」という事を仰っておられる事になります。
 ☆ 《身心》は 自己・わたしの成り立ちを説明した言葉です。

 わたしが思惟し行動するとき 身心を遣います。
 身心は切っても切り離せないわたしの成り立ちとしてあります。

 わたしを自己と言ってもよいわけです。(広義においては そうです)。


 ――となれば 身心をいちいち自我と言う必要は どこにもない。こういう意味です。

 《身心は要る》というよりも 身心からわたしは成り立っています。

 身心をわざわざ自我と言う必要はない。つまり 自我という言葉は要らない。こういう意味です。





 これまでに説明したところから こういう理解はふつうの人ならじゅうぶんに出来ることです。

 ただ ためにする曲解と執拗な食い下がりにしか過ぎません。無駄のひとことです。




 もうこれで 客観的な証拠は出来上がりましたので つき合う必要はないでしょう。
 お気の毒さま。


 ここまでのご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-05-08 16:41:14

ANo.8

>質問者の見方としては その《自己》を広く捉えようとも言っています。すなわち 

>自己・わたし: 
>身心(身体と精神なる自然本性)
>霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)

>わたしの見方における広い《自己・わたし》の中に当然のごとく含まれるのですから わざわざ自我と言うこともなくなる。

 では、質問者様は、「霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)」とは、身心の事であると仰る訳ですね?
 同様に、「自己」とは「身心そのもの」の事であり、「自己」には「身心以外の要素」は含まれていないと仰る訳ですね?
 しかし、「身心」は経験世界に属するものなのですから、それでは質問者様の仰った

>《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言う

という話とは矛盾している事になりますので、やはり質問者様の仰る事は話が進むたびにどんどんと矛盾が生じてばかりいます。
 矛盾のある話は命題とはなり得ません。

 従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。


>わたしがこれこれこう言っているというその内容を 話の過程において理解しない・拒絶するというのは いただけません。
>それはただ 話をぶっ壊すために投稿しているに過ぎなくなります。

 その様に考えるのはとんでもない誤りです。
 私が理解しようとしないのではなく、質問者様のお話が矛盾に満ちたものであるため、誰にも理解しえないものとなっているだけの事です。
 私がやっているのは、質問者様の話が矛盾しているという事をそのままお伝えして、矛盾が解決されなければ問いとして成り立たないという事を教えているだけに過ぎません。
 つまり、私が話を壊しているのではなく、質問者様のお話が最初からぶっ壊れているだけなのです。

投稿日時 - 2016-05-08 13:53:34

お礼

 ★ では、質問者様は、「霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)」とは、身心の事であると仰る訳ですね?
 ☆ どこをどう読めば そういう理解になりましょうか。

 《自然本性》つまり身心のこと これが霊我の説明に入っているからですか?

 それについては カッコをほどこしていますし 別の項目としてはっきりと《自然本性:身と心》と示しているのですから いったいどこをどうクリックすればそんなページが開かれますか?


 ★ 同様に、「自己」とは「身心そのもの」の事であり、「自己」には「身心以外の要素」は含まれていないと仰る訳ですね?
 ☆ もう開いた口がふさがりません。


 ご自分で次の図式を引用しているぢゃありませんか?

 >自己・わたし: 
 >身心(身体と精神なる自然本性)
 >霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)

 これは次のように 二つの事項を《自己・わたし》が含むと言っています。

  自己・わたし: 
    身心(身体と精神なる自然本性)
    霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)


 そんなに読み取りづらいですかね。


 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~

  自己・わたし〔と自称する行為主体〕:
    身心:身体と精神とから成る自然本性
    霊我:アートマン=ブッダター(仏性)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~



 あるいは次のように《自我は要らない》ことを説明しています。これについては すでに確認し承認されているということでよろしいのですね?

 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~
  《自己ないしわたし》が〔その身としての〕:
  ★ 筋肉を鍛える
  ☆ と言えばすみます。《自我》は要りません。


  ★ コンピュータが計算を行うためには・・・(省略しました)・・・
  ☆ については 《コンピュータに計算を行なわせるためには》 わたしの身体と精神とが要ります。自我は いちいち言う必要はありません。なくても済みます。


  そして自我が要らないというには:
  ★ 「何のために」という事を明確に
  ☆ することは一切必要ありません。自己・わたしの一部であるからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ですが このように説明している内容はすでにNo.1からるる明らかにして来ています。 
 そのことにバツのわるさをでも感じないのでしょうか。

 ふつうなら 申し訳なさを感じているはずのことです。いつまでも同じことの繰り返しなのですから。



 お回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-05-08 14:15:10

ANo.7

>次のひとつの存在論が 基本です。

>自己・わたし: 
>身心(身体と精神なる自然本性)
>霊我(自然本性+α)

>《霊我=アートマン》は 《+α》のことです。

 つまり、

>(く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。

という話は《自己》の定義ではないし、《自己》と《身心》はイコールではなく、

>(こ) 身心である自我

である以上は、《自我》と《身心》はイコールなのであるから、《自己》と《自我》はイコールではないと仰っている訳ですね?
 それならば、《自己》と《自我》はイコールではない以上、《自己》と《自我》はそれぞれ別の概念であり、別の概念である以上はそれらは区別して扱わねばならないのですから、《自己》と《自我》の事を取り扱うためには、《自我》という表現と概念を、《自己》という表現と概念とは別個に設ける必要がある、つまり、《自我は要る》と仰っている事になるではありませんか。
 それは、質問者様が仰っている

>つまり 自我は要らない。

とは真逆な話しであり、質問者様の仰る事は話が進むたびにどんどんと矛盾が生じてばかりいます。
 矛盾のある話は命題とはなり得ません。

 従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。

投稿日時 - 2016-05-08 10:05:20

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
   >(く) 《自己》と訳された《アートマン》は・・・

 という話は《自己》の定義ではないし、《自己》と《身心》はイコールではなく、
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 宮本啓一において《〈自己〉と訳された〈アートマン〉》について もっぱら述べているくだりです。

 その見方によれば 《身心としての〈自我〉》とは《自己=アートマン》が別だというひとつの捉え方になっています。

 ただし 質問者の見方としては その《自己》を広く捉えようとも言っています。すなわち 

  自己・わたし: 
   身心(身体と精神なる自然本性)
   霊我(=アートマン:〔自然本性〕+α)


 さらに言えば 宮本啓一によれば 《身心》は《自我》にあたるそうですが もしその見方を採用するとしても この自我に比される身心は わたしの見方における広い《自己・わたし》の中に当然のごとく含まれるのですから わざわざ自我と言うこともなくなる。
 ――こういうふうになります。

 

 言っておきますが このわたしの説をあなたが採用する必要はありませんが わたしがこれこれこう言っているというその内容を 話の過程において理解しない・拒絶するというのは いただけません。
 それはただ 話をぶっ壊すために投稿しているに過ぎなくなります。



 ご回答をありがとうございます。

 

投稿日時 - 2016-05-08 11:32:14

ANo.5

>(自称している)行為主体

> と表現すれば事足りる事になる。
> ~~~~~~~~~~~~~~~
> ☆ いいえ。
>  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~
>   自己・わたし: 
>   身心(身体と精神なる自然本性)
>    霊我(自然本性+α)

>  という捉え方を質問者は推し出そうとしています。
>  ☆ というふうになりますので おっしゃるようには成りません。


 では、

>(く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。

という話は間違いだったという事なのですね?
 質問者様の仰る事は話が進むたびにどんどんと矛盾が生じてばかりいます。
 矛盾のある話は命題とはなり得ません。

 従って、質問者様のお話は命題などでは御座いません。

投稿日時 - 2016-05-08 04:24:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 次のひとつの存在論が 基本です。

   自己・わたし: 
    身心(身体と精神なる自然本性)
    霊我(自然本性+α)

 《霊我=アートマン》は 《+α》のことです。

 その場が 《非経験の場(つまり 神)》を心に受け容れたときに成る《非思考の庭》のことです。

 
 《自己・わたし》は 経験事象としては《身と心とから成る自然本性》にとどまるという見方があり得ます。

 ただし 《ブッダター(仏性)=つまり アートマン(霊我)》が 人の生まれつきの自然本性にやどると想定したなら 《自己・わたし》は 《自然本性 および +α》であると成ります。

 (く)は 宮元啓一において《自己》と訳された《アートマン》のことだけを言っています。つまり プラスα だけのことです。

 自己=わたしは もともと 身と心なる自然本性なる存在です。これは 誰にとっても決まっていることです。

投稿日時 - 2016-05-08 05:49:22

ANo.4

>▲ 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える 
>☆ のです。《いわゆる》という言葉が添えてあるのは そのあとこの《自我》という表現と概念は要らないと言おうとしていることを表わしています。

 それならば、

>☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。
>(け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。
>(こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。


における《自己》、《アートマン》、《霊我》、《ブッダター(仏性)》、《わたし》という表現と概念もまた要らないということになる。

>(自称している)行為主体

と表現すれば事足りる事になる。
 従って、

>(こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。

において、《自己・わたし》という《要らない》表現を使用ている時点で、

>つまり 自我は要らない。

とする根拠を失っており、その矛盾・ダブルスタンダードに基づいた話は命題などとは言えない。


>かくして《自我》の擁護論は 何の意味もありません。

 私の回答を「《自我》の擁護論」と見做している時点で、質問者様のその反論は何の意味も無いものに過ぎなくなっている。
 私の回答は質問者様の話には、「『何のために』、『何にとって』『要らない』と言えるのか」と言う肝心な事が抜けていいるが故に、論点が不明となっているため、命題としてはまるで成り立っていないと述べているだけである。
 従って、質問者様のその反論は何の意味も無い。

投稿日時 - 2016-05-07 22:45:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 《自己》、《アートマン》、《霊我》、《ブッダター(仏性)》、《わたし》という表現と概念もまた要らないということになる。

  >(自称している)行為主体

 と表現すれば事足りる事になる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいえ。

 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 
  自己・わたし: 
   身心(身体と精神なる自然本性)
   霊我(自然本性+α)

 という捉え方を質問者は推し出そうとしています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうになりますので おっしゃるようには成りません。

  自己・わたし〔と自称する行為主体〕:
    身心:身体と精神とから成る自然本性
    霊我:アートマン=ブッダター(仏性)

 というふうになります。そこで自我は要りません。


 最後の段落は 間が抜けています。すでに答えているのにそれを無視しています。
 このことは それ以上の失礼はないということをお伝えします。

投稿日時 - 2016-05-07 23:15:27

ANo.3

>☆☆(趣旨説明欄) (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。
>☆ という命題にみちびかれる。これを問うています。


 その文面のどこら辺に命題があるのでしょうか?

>つまり 自我は要らない。

という文面には「『自我』が何にとって『要らない』」のかという事に関して全く述べられていない。
 例えば、筋肉を鍛えるためには身体を動かす必要があり、

>身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える

という考えに従うのであれば、身体もまた自我の一部という事になるのであるから、筋肉を鍛えるためには「自我は要る」と言う事が出来ます。
 一方、コンピュータが計算を行うためには、心も身体も必要ありませんから、コンピュータが計算を行うためには自我は要らない」と言う事が出来ます。
 この様に「要る」・「要らない」を判断するためには「何のために」という事を明確にする事が必要不可欠であり、その事を無視して「要る」・「要らない」を問うてもそれは意味不明な言葉の羅列に過ぎず、問いにはなり得ません。
 つまり、「『自我』が何にとって『要らない』」のかという事に関して全く触れていない

>つまり 自我は要らない。

という文章は、何の意味も持たない言葉の羅列に過ぎず、命題などではありません。

投稿日時 - 2016-05-07 19:07:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 身体もまた自我の一部という事になるのである
 ☆ 微妙に違います。

 ▲ 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える 
 ☆ のです。《いわゆる》という言葉が添えてあるのは そのあとこの《自我》という表現と概念は要らないと言おうとしていることを表わしています。

 微妙な違いが あとで百八十度違う結果となります。

 すなわち この《身心としての自我》は 存在としての《わたし=自己》にふくまれる。と言っています。

 すなわち:
 ☆☆(趣旨説明欄) (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。
 ☆ という命題にみちびかれる。これを問うています。


 《自己ないしわたし》が〔その身としての〕:
 ★ 筋肉を鍛える
 ☆ と言えばすみます。《自我》は要りません。


 ★ コンピュータが計算を行うためには・・・(省略しました)・・・
 ☆ については 《コンピュータに計算を行なわせるためには》 わたしの身体と精神とが要ります。自我は いちいち言う必要はありません。なくても済みます。


 そして自我が要らないというには:
 ★ 「何のために」という事を明確に
 ☆ することは一切必要ありません。自己・わたしの一部であるからです。



 かくして《自我》の擁護論は 何の意味もありません。

 
 

投稿日時 - 2016-05-07 19:50:36

ANo.2

「宇宙としての自己」と「肉体としての自己」は、自ずと
異なる。
自我仮説=記憶(過去=超光速)=時間の流れ(時間軸)と、
空間仮設=予測(未来=光速下)=空間の広がり(空間軸)
の相補分化と、その仮説的延長(階層現象表面性に由来
する非光速)における時空の広がりにおける、無の射影と
しての量子=存在の一部(感受表面=量子相互作用=光速)と
しての肉体。
その感受表面の内が「肉体的自己=経験(過去)=進化=時間」、
外が「意識としての自己=予測(未来)=可能性=空間」を成す。

大変申し訳ございませんが、この投稿に添付された画像や動画などは、「BIGLOBEなんでも相談室」ではご覧いただくことができません。 OKWAVEよりご覧ください。

マルチメディア機能とは?

投稿日時 - 2016-05-07 13:46:31

ANo.1

 その話では、「自我」に関しては、

>身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える

と定義しているのに対し、「自己」の定義、即ち「自己」とは何であるのかに関しては何も語られていない。
 そのため、その話の中で「自己」に関して述べられている部分は、何の事を述べているのか不明なままと言う事になるため、その部分の記述は何の意味も持っていないという事になるため、「『自己』は『身心をまとめたもの(自我)』ではない」と言う事も出来なければ

>(え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。

>(お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。

>(か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因も持ちません。 ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。

と言う事も出来ず、それらの話は何の意味も持たない只の言葉の羅列に過ぎないものとなっている。

投稿日時 - 2016-05-07 12:44:26

補足

 この場をお借りして 回答No.2へのお礼です。

 ★ 「宇宙としての自己」
 ☆ 何のことなのか 分かりません。

 われは 場のユラギによってあたかも単体として場から分かれ出て来た個別のものではないか?

 場がそのまま時空間である。

 だとすれば 《わたし》が 世界とつながっている・もしくは一体であるという見方は 分かるような気がします。

 けれども 《宇宙としての自己》とは何ぞや?


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 その感受表面の内が「肉体的自己=経験(過去)=進化=時間」、
 外が「意識としての自己=予測(未来)=可能性=空間」を成す。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように《内と外》とを分ける見方は 《宇宙としての自己》とは――表現だけで判断しているのですが――言えないような気がします。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-05-07 16:56:11

お礼

 ★ 即ち「自己」とは何であるのかに関しては何も語られていない。
 ☆ 《存在》ないし《わたし》については 自同律・同語反復で説明することになっています。

 《わたしはわたしである》。つまり いま・ここでそう言っている(自称している)行為主体のことを言うのだと。

 ▲ (え) 認識主体
 ☆ であれば だいじょうぶです。

 よって:
 ☆☆(趣旨説明欄) (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。
 ☆ という命題にみちびかれる。これを問うています。


 (か)の《自己》は ですから:
 ☆☆(趣旨説明欄) (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。
 ☆ というふうにも捉えられて行きます。

 すなわち:
  
 自己・わたし: 
  身心(身体と精神なる自然本性)
  霊我(自然本性+α)

 という捉え方を質問者は推し出そうとしています。
  

 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-05-07 15:52:15

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