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解決済みの質問

イエスとアクマ

 キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。

 だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。





 話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。

 それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。

 イエスが何をするか その行動を追跡していた。

 ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。



 ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。



 それでこそ悪魔であった。

 すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。

 もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。

 ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。




 去って行ったイエスに度肝を抜かれた。

 よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。

 文字通り アクマは 腑抜けになったのである。



 添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。賛成票をも。

投稿日時 - 2016-09-21 05:34:34

QNo.9232085

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonneさん おひさしぶりです。

修行でIT media に回答する暇がありませんでした。

回答ですが、イエスを荒れ野で40日誘惑しても屈しなかったという聖書の有名な箇所(ルカによる福音書4章)から、すでに、悪魔はイエスに対しては腑抜けです。

ちなみにbragelonneさんはご存知かもしれませんが、40という数字は、出エジプトでイスラエルの民が40年の間、砂漠をさまよったという記述にも見られるように、キリスト教では、「長期間」という意味の比喩の数字です。

しかし、イエスはキリストで神の子だったので、悪魔は腑抜けになったかもしれませんが、悪魔という存在を肯定すると、人間に対しては腑抜けになっていないと思います。

人が生きるということには、さまざまな誘惑にさらされることは避けられないからです。

社会的には金銭欲や出世欲。
生理学的には、週刊文春の売り上げ向上に貢献している芸能人の性欲からの不倫など。

あなた方が自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。(コリント信徒への第1の手紙 7章)

エデンの園で悪魔はアダムとエバに善と悪の知識の木の果実を食べさせました。

しかし、bragelonneさんに質問しますが、人間はこの果実を食べたことで善と悪を区別できる知識を身につけることが出来たのでしょうか?

そして、善悪の区別は、神ではなく人間の視点で厳密に区別できうるものでしょうか?人により考えが違う相対的なものではないか?

人間の「理性」というもので「真」というものにどこまで判断できるのか?

某大学の神学科の名誉教授から教授されたことは、キリスト教の考えにおいては、

「神(絶対的真理)というものを知るには人間の理性には限界があり、それ上のことを知るためには聖霊の導きが必要である。」

そして、コリントの信徒の第1の手紙の12章を読んでもらいたいですが、神は人に同じ賜物(能力)ではなく別々の賜物を与えた。例えば、知恵の力、病気を癒す力、霊を見分ける力など。

だから、人間というものは一人でなく、それぞれ違う賜物を持っている人々が協力して力を発揮すべきというのがキリスト教の考えです。日本的に言えば、解散まじかのSMAPの「世界にひとつだけの花」です。

しかし、上記の霊を見分ける力、善い霊、悪い霊(善悪)を区別する賜物を神から与えられていない人に神学の真理がわかるか?と名誉教授に質問したら、曰く「それは賜物を授かっている指導者に任せるべき。」とのこと。

bragelonneさんは霊(善悪)を見分ける力があることに自信がありますか?

余談ですが、休日に国立新美術館で現在開催中のベネチア展を見に行きましたが、日本におけるキリスト教に関心がある人は少ないとみえ、休日なのにガラガラでした。

西洋哲学を志す人なら、その土台のキリスト教の知識がないと、いくら学んでも薄っぺらだと私は思っています。

その展覧会で観た絵を添付します。

ヒエロニムスという聖人が荒れ野で修行中、性欲が起こったことに、自分を卑下したところ、目の前に聖書と十字架が現れたという絵です。

https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%9D+%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%8E&biw=1366&bih=651&tbm=isch&imgil=-5p5883MTOkCTM%253A%253BtHrPvE-bP60K8M%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fwww.cinra.net%25252Fnews%25252Fgallery%25252F100406%25252F12&source=iu&pf=m&fir=-5p5883MTOkCTM%253A%252CtHrPvE-bP60K8M%252C_&usg=__nSyAOvGPCxE_p0VYSDrfO4HGvIs%3D&ved=0ahUKEwj5xai7xKHPAhWKm5QKHeZhCusQyjcIOA&ei=Jg3jV_maJIq30gTmw6nYDg#imgrc=-5p5883MTOkCTM%3A


bragelonneさんは、性欲は枯れ果てているかもしれませんが、性欲が起こったら聖書でも読んで昇華させてください(高校保健体育)。

では、お礼を書く代わりに、名古屋名物、きしめんと、天むすと、味噌煮込みうどんを送ってください。

えっ、出来ない?

それを、いっちゃーおしめえよ。

学問の旅にけえるぜ。では、またいつか。

投稿日時 - 2016-09-22 07:55:46

お礼

 おお。どこをほっつき歩いてたんだ。――と言われなきゃならないのは この OKWave については わたしのほうなんですが。

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 修行 
 ☆ !? あっ そう言えば その話は聞いたおぼえがあります。そうでしたか。何か集中期間だったんでしょうか。


 さて: 
 ★ 回答ですが、イエスを荒れ野で40日誘惑しても屈しなかったという聖書の有名な箇所(ルカによる福音書4章)から、すでに、悪魔はイエスに対しては腑抜けです。
 ☆ うむ。それもそれ これもこれ・・・ではないのですか?

 だって そののち カリオテの人たるユダに悪魔が忍び込んていますし ペテロも 悪魔は去れとイエスに叱られる嵌めに落ち入っています。――ということではないの?

 ★ 四十
 ☆ は ほかに《完全・完成・成就》といった意味もですよ。




 ★ しかし、イエスはキリストで神の子だったので、悪魔は腑抜けになったかもしれませんが、悪魔という存在を肯定すると、人間に対しては腑抜けになっていないと思います。
 ☆ あっ そういうふうに見るのですか。――ん? 待てよ。でも だったら そのことも キリストとしてのイエスの管轄の中にある・・・のでは?



 ★ 人が生きるということには、さまざまな誘惑にさらされることは避けられないからです。
 ☆ ううーん。まだ修行が足りんわい。
 
 試練として・ということは なお周りの人たちとともに――そのときの状態を打ち破るために――なお伸びしろがあたえられる。という意味で 《誘惑があっちからやって来る》のぢゃわい。

 そのほかの場合というのは 目の前の相手が じつはその以前から誘惑にさらされていたりすでに落ち入ってたりするとき――そしてそれは自業自得なのであり―― その心の状態をこちらが あたかも鏡に映すようにして・あるいはさらに感性や心情の問題としてはあたかもこちらに輸入したようにして 相手のその誘惑状態を避けられずに受け止めている。ことがあり得ます。

 これは 例のミラーニューロン現象です。自然に起きる現象であり 自覚するのはすでに受け身の心的現象として起きていると気づいたときです。

 こういう事情が いまわたしの知る《誘惑》の問題です。




 ★ ~~~~~~~~~~
 社会的には金銭欲や出世欲。
 生理学的には、週刊文春の売り上げ向上に貢献している芸能人の性欲からの不倫など。

 あなた方が自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。(コリント信徒への第1の手紙 7章)
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ううーむ。こんなことを考えてるんですか。そんなことは ひとから見れば大きなお世話ぢゃないのですか?


 ★ ~~~~~~~~~~
 エデンの園で悪魔はアダムとエバに善と悪の知識の木の果実を食べさせました。

 しかし、bragelonneさんに質問しますが、人間はこの果実を食べたことで善と悪を区別できる知識を身につけることが出来たのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ そうだよ。つまり もともと そういう神のハカリゴトの中にあって そのように経過したと言っても 言い過ぎではないと思います。

 その結果 自由意志の存在にも気づきました。つまり 神の指し示したことに対しても逆らった考えと行動とが 自由意志によって成し得るということです。

 善に逆らうことをも思い描きしかも実行に移すという善悪観および自由意志のハタラキが 実際に人間のものとな〔っていたのが明らかにな〕った。

 

 ★ そして、善悪の区別は、神ではなく人間の視点で厳密に区別できうるものでしょうか? 人により考えが違う相対的なものではないか?
 ☆ この問題についてこそ
 ☆☆ キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかった
 ☆ の答えが 用意されています。(人間の能力や努力を捨てよという意味ではありません)。

 善悪の区別は 例のヤマシサ反応によって――主観としてはそれなりの〔相対的な〕確実さをもって―― はっきりします。

 そして ひとの存在(言いかえると いのち および 自由な意志とこころ)をないがしろにすることは 理論じょう絶対的な《負の善》であると決まっているはずです。例外なく人なら そのような《意志行為》には 絶対的なヤマシサ反応を起こすという意味です。

 ただしすべては 移ろい行く人間の心――そこに自由意志なる能力もふくまれる――のことですから 誘惑に引きずられて行くヤマシイことを思い描いたり そのように善を損ない善から離れて行くことも 起こるという状態です。


 
 ★ ~~~~~~~~~~
 人間の「理性」というもので「真」というものにどこまで判断できるのか?

 某大学の神学科の名誉教授から教授されたことは、キリスト教の考えにおいては、

 「神(絶対的真理)というものを知るには人間の理性には限界があり、それ上のことを知るためには聖霊の導きが必要である。」
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ですから
 ☆☆ キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかった
 ☆ を取り上げています。

 ★ ~~~~~~~~
 そして、コリントの信徒の第1の手紙の12章を読んでもらいたいですが、神は人に同じ賜物(能力)ではなく別々の賜物を与えた。例えば、知恵の力、病気を癒す力、霊を見分ける力など。

 だから、人間というものは一人でなく、それぞれ違う賜物を持っている人々が協力して力を発揮すべきというのがキリスト教の考えです。日本的に言えば、解散まじかのSMAPの「世界にひとつだけの花」です。
 ~~~~~~~~~
 ☆ まぁ そういう捉え方もあり得るでしょう。


 ★ しかし、上記の霊を見分ける力、善い霊、悪い霊(善悪)を区別する賜物を神から与えられていない人に神学の真理がわかるか?と名誉教授に質問したら、曰く「それは賜物を授かっている指導者に任せるべき。」とのこと。
 ☆ それについては 《おのれの心に湧き起こる思いや考えについて ヤマシサ反応は間違いなく起きます。起きますが そのときその反応が やめときましょう 避けましょうと言っているそのことを 心に逆らって人間が自由意志の自由度においてえらぶ》というふうに わたしには考えられます。

 ヤマシサ反応という賜物は みなにそなわっているという前提を見過ごすわけには行かないと。

 ★ bragelonneさんは霊(善悪)を見分ける力があることに自信がありますか?
 ☆ これも この質問の主題が 鍵です。

 ★ ヒエロニムスという聖人が荒れ野で修行中、性欲が起こったことに、自分を卑下したところ、目の前に聖書と十字架が現れたという絵です。
 ☆ アウグスティヌスにに『結婚の善』という問い求めがあります。よ。



 ★ では、お礼を書く代わりに、名古屋名物、きしめんと、天むすと、味噌煮込みうどんを送ってください。
 ☆ お礼――というよりは 叱責――は すでに書いちゃった。
 
 このあいだ――と言っても数年前―― ひつまぶしを食べました。恥づかしいことに初体験。うなぎです。おいしいよ。



 こんなとこだっぺ。

投稿日時 - 2016-09-22 09:30:45

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回答(9)

ANo.9

研究メモ2、
西洋における哲学は神学が土台で神について考えることだ。
これは、人がお互いを認め人間を自覚する知性的資質は神によってもたらされた。
それだけで簡潔に結論できる。
神の存在の証明というよりも、神の存在を自らが実感することが大切だ。
この点は莫大な懸賞金がかかっていたね。
さて、長々とサルを飼いならす本でも書いてみようか。
東洋で、特に日本の仏教哲学だけ展望すると、神を考えることじゃなくて人間を考えることだ。
仏とは何ぞや、ということだ。
これは、生きる道(タオ)という中国の影響もあって、仏道という仏教のしるしで装飾された人間の自覚を問う哲学だ。
生きることから存在を自覚する手法には東洋にも見るべき点はある。
西洋では、聖人とは殉教者だ。

投稿日時 - 2016-09-23 22:56:51

お礼

 アクマを 物語の中に押し込んだようになっているところは お嫌いですか?




 ★ 神の存在を自らが実感することが大切だ。
 ☆ 神は 無い神だということを実感することが 大切だ。――と 同等に 言えるほどであるかどうか。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-23 23:30:08

ANo.8

研究メモ。
生きながらに自らを丸ごと観念に昇華させるタイプが、涅槃という言葉の境地で、釈迦に由来して日本に渡来した仏陀の概念だ。
死ねばどのみち観念になるんだが、自らに舞い込むことに禁忌が強く考えることを放棄している。
私は輪廻という言葉は生態系の循環に対する自然科学以前の直感が浸透したものだと考えていて、古代インドには十分死に対して考えた哲学の片鱗だと肯定しているよ。
逃げたままだと、仮面ライダー最速の臆病者と最速バトルをすることになる。

投稿日時 - 2016-09-23 22:41:02

お礼

 ふむ。分からん。あしからず。






 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-23 22:46:13

ANo.7

ケラケラ。
君は死ぬんだよ。
生きたまま死を自覚する今の屍じゃない。
生を失い、死そのものとなり、死を自覚するのだ。

まあこう遊んでみた。
肉体が滅することは私にとっては変化であり、死ではない。
これが永遠に生きる不死者だ。
新で死者の国に行く死者は生を失い死そのものとなる。
君もそうなる。

ヒントを言っておくと、宗教にしろ生きることにしろ、死とかかわっている。
逃げないでそこも哲学に挑戦するといいんだが、最速の臆病者である仮面ライダーに誰も追随できていないね。

ヨタ話なんだけど、臨死体験可能な私はフェアリーフュージョン中のけがされた精霊を臨死体験に巻き込む無理心中という特技がある。
一時これがアマテラスミッションの主体で、私は死神のごときであり、歩く棺桶だった。
私は犬が好きでね、お留守番している近所の犬や、お散歩中の犬を見かけると挨拶する習慣があるんだが、一時期犬という犬が私を見ると吠える状態になって、死神状態に困り果てたことがある。

投稿日時 - 2016-09-23 22:26:18

お礼

 見知らぬ犬が こちらに吠えて来たら たいていはその飼い主の気持ちや心を表わしている。

 こちらに懐(なつ)いて来る様子だったら 飼い主は 中立。つまり 犬が あなたを好きになっている。

 と思う。





 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-23 22:44:08

bragelonneさん こんばんは

先の私の回答を、聖書の言葉で、補足します。

「知恵を求めるソロモンの祈り」

知恵はあなたとともに御業を知り、世界をお造りになったとき、そこにいました。
(中略)
知恵はすべてを知り悟っています。
(中略)
神の計画を知りうる者がいるでしょうか。
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。
(中略)
あなたが知恵をお与えにならなかったら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったら、だれが御旨を知ることができるでしょうか。
知恵の書 9章9節~17節

主を畏れることは知恵の初めである。
シラ書 1章14節

キリスト教の神を信じるか信じないかは別にして、人間はちっぽけな存在であるので、へりくだって謙虚に生きること。これが、知恵を手に入れることには重要である。

bragelonneさんの理性が暴走しないことを祈ります。

投稿日時 - 2016-09-23 19:28:07

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 暴走するなと言われると したくなるタチでして。



 知恵は 半ば擬人化されていますね。フクマーでしたか。



 大事なこと。
 ★ へりくだって謙虚に生きること。
 ☆ これだと 《自力》なんだよね。

 言いかえると 《律法主義》ですね。行為(その努力)による義認論ですね。

 信仰による義認という見方と もし対立するものであるなら 心してかからねば。



 《知恵》は 絶対他力なり。と。




 あぁ 暴走が中途半端になっちゃった。



 どうですかねぇ。

投稿日時 - 2016-09-23 21:57:51

ANo.4

正解はひとつだけとは限りません。」←だったら それで良いだけ・・

一つで無いのなら 尚更・・

あなたが考えられる 全ての事が正解なのだから 質問する必要が無いだけ・・

投稿日時 - 2016-09-21 22:17:46

お礼

 もう少し 事態をよく考えてみてください。

 ともに主題・問題を共有し その問い求めにすすむようにしましょう。

 相手がわるいとか 誰がいけないのだとか そういう《政治》にしか興味がないのですか?




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-21 22:28:04

ANo.3

その活動からも自由でまったくあたらしい〔契約の始まりとしてもの〕世界を切り拓いたのでしょう。」←あなたが そう思うのなら それで良いだけです・・

知ってるのなら質問しなけりゃイイのに・・

投稿日時 - 2016-09-21 16:34:20

お礼

 正解はひとつだけとは限りません。

 たとえひとつであったとしても 問い求めというものは 動態です。過程です。

 なおよりよき内容をという思いが 現状維持よりも優っているというのは 哲学にとってふつうの歩みです。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-21 20:49:51

ANo.2

人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます」←人間の力で無いので良いのなら 何故 人間として産まれなければならなかったのでしようね?

あなたの考えが正しいのなら イエスは天から指示すれば良かっただけ・・

投稿日時 - 2016-09-21 13:26:34

お礼

 人間でありつつ――ヨセフを父としマリアを母とするその人間どうしのコイトスによって生まれたふつうの人間でありつつ―― しかも人間のチカラに頼ることなく 人との・そして社会との関係を生きた。

 そのことを示すには 人間として生まれなければならなかったのでしょう。


 ★ 天から指示すれば
 ☆ これは――それがあるとしてですが―― せいぜいが旧約の時代の預言者の活動のあり方に当たるのかも分かりません。

 その活動からも自由でまったくあたらしい〔契約の始まりとしてもの〕世界を切り拓いたのでしょう。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-21 13:38:51

ANo.1

>話の都合じょう悪魔という言葉を出せば

と言っているだけで、実際には悪魔であるのかどうかすら明らかにせず、然るに「ここで言う悪魔とは何か」という「悪魔に関する定義づけ」すら行っていないのであるから、あなたの話は何について述べたものでもなくなってしまっており、そのような話には意味がない。

投稿日時 - 2016-09-21 10:09:51

お礼

 聖書に書かれたことは――そして実は 人間が自分たちの持った言葉で自己表現をすること自体が そもそもそうなのだと考えますが―― 基本として物語である。あるいは 芸術作品である。
 ――という前提に ここでは立っています。

 経験科学としての合理性一本によって論理的に書かれたものではないという意味です。

 その前提を――舌足らずの言い方になってしまいましたが―― この《話の都合じょう》というおことわりに込めて言っている。そのようにご理解ください。




 ご投稿をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-09-21 10:18:37

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