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解決済みの質問

宗教と科学の論争

両親がいるのですが、片方の親(A)は、深い信仰心を持っていて、もう片方の親(B)は、科学しか信じていない、という、不思議な家庭に生まれました。これが原因で、なかなか家族で落ち着いて会話することができません。

信仰心の深い親(A)対して、「人間を超える何かがあることは尊重する。ただ、それを親(B)が納得できるかどうかは、科学的根拠がないと困難。これを理解してほしい」と説明します。

科学を信じる親(B)対しては、「科学が今の世の中の基礎になっているが、同時に人間の心や宇宙の発端そのものについては、まだ解明できておらず、何か人知を超えるものがあるのではないか」と説明して、歩み寄りを促します。

親(A)は、「例え科学的証明が無理でも、存在するものは存在するのだから、存在する」と言います。それは内的に感じられるものが伝えてくれる、ということです。しかし、これは科学的または客観的な根拠がありません。

感情的にならないように、「気持ちは分かるし、とても共感する。親(A)が神様は存在するという考え、そして宗教への信仰心は尊重する」と伝えますが、やはり絶対的な存在である以上、「人の考えはそれぞれなのだ」という考えにはなりません。やはり「正しいものは正しいのだ」「自分は正しい」という結論に落ち着いてしまいます。

親(B)は、妥協策として「黙る」という対策を取っています。つまり、家族の中では何も喋らないことで、対立を産まないという方向に動いています。結果として、家族の中の会話が非常に浅いものになっています。

このまま放っておくのも一つですが、やはりあまり風通しがよくないのは心の支えに欠けると感じるので、理想的には、信仰心や宗教は、個人の自由だという前提で、それぞれを尊重しながら、家庭内でより気軽に会話できる環境をつくりたいと思うのですが、同じようなご経験をされた方はいるでしょうか。

また類似の状況をどうやって打開してきたでしょうか。(理論的には諦めるとか、無理だという方向に安易に議論を広げることはできると思うのですが、できればご経験者の体験談をお伺いさせて頂きたいと思っています)

個人的には、最新の心理学や脳科学が人間の感情や人間関係と幸福感の相関関係などを論文でとりあつかうようになってきたので、神様はいるかどうか、という証明不可能な論争を避けつつ、「心理学上の幸福感とは何か」といったテーマに絞って科学と宗教の妥協点を探すのが現実的なのかなと思っているのですが・・・。

投稿日時 - 2016-10-07 23:58:05

QNo.9239647

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

質問者さんの親御さんがどっち方面の宗教を信じているかがありますが、聖書にはこんな一文があるのです。あるときイエスが弟子たちに「汝らは見ざれば信ぜず」と嘆く場面があるんですね。「お前たちは奇跡を見ると信じるけれど、奇跡がないと信じないのは本当の信仰ではない。奇跡がなくても信じるのが本当の信仰だ」というのです。これは、キリスト教も仏教もイスラム教も他の宗教も全部そうです。その親御さんの宗教団体も「ご利益があるから信じるというのは間違いです」といっているはずです。
だから、宗教というのは「まず信じるありき」なのです。見ようが見まいが、奇跡が起きようが起きまいが信じるのが信仰の真実なのです。

一方、科学は「推論を重ねて信じる」というプロセスを経ていきます。リンゴは木から落ちるけれど、落ちたリンゴが木へ戻ることはない、というようなことを重ねて「リンゴは木から落ちる」を信じるわけです。いってみれば「見ざれば信ぜず」なのです。

ですから、宗教と科学では「信じる」というものに対するスタンスそのものが基本からして違うのです。その基本が違うと、本来は妥協点を探るのは困難です。なぜなら、価値観の根幹が違うからです。なんていうのかな、自分が「人を殺してはいけない」っていう基本的な価値観があるとしたら、「人を殺していい」と考える人と妥協点を見つけるのは極めて困難ですよね。妥協点を見つけるということは、「人を殺していい」という考えを受け入れることになるからです。
人を殺すまではいかなくても、「恋人がいるときは他の異性とデートしたりセックスをするのはいけない」とかなら理解できますでしょ?

そのご両親の間の妥協点が「お互いの領域には立ち入らない」なのです。これはね、若いうちはわからないだろうけれど、成熟した大人の知恵なのです。大人になると、相手の自分の中で大切にしている領域には立ち入らないことが関係を長続きするための秘訣だということを知るのです。
こういうとちょっとわかりづらいけれど、「相手のケータイをのぞき見しない」だと思うと納得するでしょ?相手のケータイをのぞき見しないほうがいいように、相手が大切に思っていることに関しては、立ち入らないほうがいいことがあるのです。

投稿日時 - 2016-10-10 12:54:37

お礼

人には、徹底的に議論すべき面と、議論を避けるべきものがある、あるいは、考えの違いを尊重することが必要だということを学ばせて頂きました。この距離の取り方が、非常に大切だということかもしれませんね。

投稿日時 - 2016-10-10 16:04:30

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回答(5)

> お話はわかりますが、自然科学と宗教の原理的な妥協点を探ってるのではなくて、両親の妥協点を探っているのです。

 質問文には、

> 「心理学上の幸福感とは何か」といったテーマに絞って科学と宗教の妥協点を探すのが現実的なのかなと思っているのですが・・・。

と明記してあるではないか。すると、あなたは「科学と宗教の妥協点を探すのが現実的だから、自然科学と宗教の妥協点を探らない」と主張していることになる。

 あなたは何の話をしているのか。支離滅裂ではないか。

> 私は両親の妥協点について実践的な対策を相談にしたのに対して、

 それなら片方の親が既に実践している。黙る、ということだ。正しいと思うがね。無い接点をあるかのように扱えば、解決不能な議論にもなる。解決は簡単だ。そのようなことを話さなければよい。もう片方の親にも同じようにさせればよい。

 これが今回初めて出た補足質問に対する答えになる。

> 貴方は学問の原理的な水と油の関係について理論的な回答をしたもので、私が一番、安易に回答するのは止めて欲しい、と暗にお伝えしていた点を無視して回答した、ということになります。

 そのようなことは「暗に」も書かれてはいない。言ってもいないことを、突如、まるで言ったかのように持ち出すのはやめてもらいたい。

> 更に、宗教に敬意を持つと書いておきながら、何ら現実的な妥協点が示されていない点にも、形だけの経緯なんだろうな、と邪推せざるを得ない回答でした。

 接点がないものは妥協点はない。先の回答で示した通りだ。妥協せよなど、双方に迷惑ということだ(二度目)。

> 人の気持ちが理解できない、できの悪い学者と話しているかのような体験でした。

 学者ではないのでね。出来も悪い。それがどうかしたのか。私は宗教と科学を安易に妥協させようとする輩に迷惑している旨、書いたはずだ。それに対して、この補足か。あなたは人の気持ちを理解していないよね。どの口が上記を言うのか。少しは恥を知るとよい。

> ちょっと言い過ぎたかもしれませんが、詳細な説明内容はその通りと思います。

 当然だ。

> もうちょっと実践的かつ現実的なお話が欲しかったのですが。

 質問内容に即して、実践的かつ現実的な話をした。あなたが聞きたい話かどうかは知らん。聞きたい話をしてほしければ、最初にそのように明記せよ。

 さて、ここまで読んで私が怒っていると思ったでしょう? 仮想的にはその通りです。ある人格を設定して、そのキャラクターに喋らせたのが上記です。そして質問者様も怒ったはずですね。先ほど質問者様が怒って書き込んだときとと同じです。

 心理学カテに即して、最後の回答を以下の通り記しておきます。

 ご両親のいさかいの原因の大半、少なくとも半ばは質問者様のせいなのです。下手に混ぜ返すだけでややこしくなる話(宗教と科学)ですし、自分の意に染まない反応に対して、怒りをもって何か言えば、さらにややこしくなります。

 大事なことなので繰り返しますが、質問者様が原因となっていることを理解すべきです。ですので、質問者様としては放置しておくのがいいです。

 もしご両親のいさかいが激しくなるようなら、祖父母、ご両親の兄弟姉妹など、ご両親の目上ないしはほぼ対等の方に相談されるといいでしょう。

投稿日時 - 2016-10-10 11:22:50

お礼

自己防衛に文面の大半が割かれているのと、前提条件を勝手に設定して判断する部分が多すぎるので、話になりません。支持のカウンターがマイナス1になってますよ。私は押してませんが。

頭良いんだと認めて欲しいような文章を書く割には論理が破綻しているし、実践的な内容も乏しいので、会話を継続する理由が思い浮かびません。人にアドバイスする前に、自分の心を整理することから始めてください。

あなたは、もういいです。

投稿日時 - 2016-10-10 15:59:39

 自然科学、特に物理学を学ぶ者(ただし研究ではなく使うため)で、特に信仰はないものの宗教には深く敬意を抱く者として回答してみます。

 結論からいえば、「宗教と(自然)科学を仲良くさせよう、妥協点を探そう」というのは、大変に迷惑です。特に自然科学を学ぶという点において、現実に非常に困っています。

 物理学を例にとることにします(自然科学は対象を絞って定義を明らかにして行うのです)。物理学で、例えば「神の実在を研究する分野があるか?」といえば、「ない、今まであった試しがないし、今後も絶対にない」といえます。物理学が何をしているかといえば、「物の振る舞いを数式で表す」です。それだけです。

 そんなもので神の存在を云々なんてできるわけがない。特にユダヤ教・キリスト教・イスラム教における唯一神、全知全能の神ですね。全知全能を物理学が語れるとしたら、もう物理学の手法で全知全能を数学的に可能にしていなければなりません。

 そんなことできるわけないし、しようと思ったこともないわけです。古今東西の物理学者全てそうです。物が落ちるのは数式でどう書けますか、電子は数式でどう書けますか、そんなことしかしていません。

 なにより、物理学は「人間が知って理解することができて、かつ、他人にも細大漏らさず伝えることができる」というものです。論文書いて、他人が評価して、という世界ですから(学問、少なくと理系は全部そう、他人が理解できない論文など受理すらされない)。

 例えばこんな簡単な問題も解決できません。

「全知全能の者が、自分が持ち上げられないほど重いものを持ち上げられるか?」

 神学などにおいては間違った議論とされているようですが、それは措いといて。これは矛盾を引き起こしますよね。数学で言えば(物理学は数学が基本言語)、

「x>y かつ x<yとなるx,yを示せ。」

ということで、「そのようなx,yは存在しないから示せません」としかいえません。これは人間には矛盾としか思えない、つまり人間には理解できない事柄ということです。でも、全知全能の者がいたら? 全知全能とまではいかなくても、人間の知性を超える者がいたら? 上記を矛盾とも思わず、「こういうものだ、xとyならこうだよ」と簡単に理解するかもしれません。

 物理学(に限らず学問全部)は「人間に分かる範囲で説明する」ということしかやっていないのです。「人間を超えない範囲で」と言い換えてもいいでしょう。なんで人間以上の存在について語れましょうか。

 なのに、よく言われるわけです。物理の勉強をしていたり、物理の話題で話したりしていると。

「物理なんてものはなだなあ、しょぜんは全てを説明できないものなんだよ。ほら、この物理理論は[宗教や哲学の書名]に合っとら。そんなのを捨てて、こっちを信じろ。人間ごときが小賢しい」

 正直、「ほっといてくれ」です。こちら(物理学の徒)は、画家が風景をキャンバスに描くのと同様、物を数式で書いているだけなのです。風景画を「自然のままのものじゃない」とは非難しないので、なんで数式だと難癖つけるのか。

 もっとも、宗教を信じるたいていの人はそんなことはしません。物理学は物理学、と割り切ってくれます。物理学者にも何らかの宗教の敬虔な信徒は多数いるわけですからね。宗教の教えと物理理論が不整合だなんて言いません。

 このことは、自然科学の立場に立った場合でも同様です。物理理論によって宗教の教えを批判するなど、論外です。研究対象でなく、研究したこともないのに、どうして批判できるのか。そういう人にも、「自然科学を悪用するな、そんなことするからおちおち勉強してられないんだ」と強硬に不服を言っています。

 妥協とか勧めないでください。自然科学を学んで使う人にも、宗教を信じている人にも。迷惑なんです。別物なんですから。無関係なんですから。

 のこぎりで釘が打てない、金づちで木が切れない、と文句を言い、のこぎりで釘を少しは打てるように、金づちで少しは木が切れるように、と工夫しても百害あって一利なしですよね。のこぎりは木を切るのに使え、金づちはくぎを打つのに使え、です。それと似たようなことなんです。混ぜるな危険です。

P.S.

 ちなみに、自然科学は「信じる」ものではありません。信じたら終わり、破滅です。逆に、疑ってかかるものです。疑っても間違いがなければ、仕方なく使いますが、依然として信じたりはしません。もっと調べれば間違いを見つけられるかもしれませんから。そして間違いが見つかったら大喜びです。やれる仕事を見つけたことになりますので。

 だからいったんは正しいとしても、常に疑っている。ニュートンの理論だって、相対論、量子力学といったもので不正確だったとしているのが現代の物理学です。疑ったから進歩した。この点は、宗教との決定的な性質の違いの一つでしょう。

投稿日時 - 2016-10-09 11:09:16

補足

ちょっと言い過ぎたかもしれませんが、詳細な説明内容はその通りと思います。もうちょっと実践的かつ現実的なお話が欲しかったのですが。回答ありがとうござしました。

投稿日時 - 2016-10-09 14:33:49

お礼

お話はわかりますが、自然科学と宗教の原理的な妥協点を探ってるのではなくて、両親の妥協点を探っているのです。

私は両親の妥協点について実践的な対策を相談にしたのに対して、貴方は学問の原理的な水と油の関係について理論的な回答をしたもので、私が一番、安易に回答するのは止めて欲しい、と暗にお伝えしていた点を無視して回答した、ということになります。

更に、宗教に敬意を持つと書いておきながら、何ら現実的な妥協点が示されていない点にも、形だけの経緯なんだろうな、と邪推せざるを得ない回答でした。

人の気持ちが理解できない、できの悪い学者と話しているかのような体験でした。

投稿日時 - 2016-10-09 14:22:19

ANo.2

 唯物論対唯心論としては、よくありそうですが、妥協点は難しいですね。たぶん両方重要が正解のような気がします。

 科学の捉え方としては、ある読んだ本に書いてあったのですが、世界には自然や人工物が様々ある。科学はその地図だといえる。正確だけど、記号体なので自然のすべてを体現しているわけではない。ノーベル賞などは、人間がいかに詳細な地図を作ろうとするかという科学研究のように思えます。

 かたや宗教は?まだ総体的な捉え方はできていませんが、文化などと関連している気もします。科学と文化は、どういう相関関係があるのでしょうか?という問いかけもできます。何だ、よくある文系か理系かの問題のような気もしますが、これも難しいですね。言葉とは何なのか?とか。

投稿日時 - 2016-10-08 22:32:32

お礼

そうですね。文系と理系の違いはあると思います。非常に悩ましいです。

投稿日時 - 2016-10-09 14:24:10

ANo.1

片や「科学が宗教を追いつめたんだよ」と語り、片や「宗教が科学を追いつめたんだよ」と説く。これで妥協は成立しますが、内容を言う相手を逆にすると関係が修復不可能になります。

投稿日時 - 2016-10-08 18:21:17

お礼

なるほどですね…。

投稿日時 - 2016-10-08 18:33:12

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