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大澤真幸の《キリストを媒介とする神の赦し》について

 ▼ (大澤真幸:十字架上に死すキリスト・イエスを媒介者とする神の・人間に対する赦しとは?) ~~~~~~~~~~~~

 1. だから キリスト教を生産的に応用しようと思えば・・・
 まづ 出発点とすべきことは 神は 人間に対して 絶対的に超越している ということである。

 2. 神が人間を 一方的に規定し 人間に働きかけることができるのみで 人間は 神へと働きかけたり 神の行動や意思を――部分的にすら――規定することはできない。

 3. 《第三者の審級》という概念を用いれば キリスト教を始めとする啓示宗教の神は その超越性を 最も純粋に きわめて論理的に首尾一貫した形式で保持している第三者の審級であると解釈することができる。

  ☆(あ) 1~3までは 神が人にとって絶対的に隔たると言っている。

  ☆(い) 《第三者の審級》というのは うさんくさいとわたしは思って
     いる。前項の《絶対の隔たり》があいまいになる。言いかえると
     絶対なる神が 経験世界に降りて来て 相対的な意味内容を持ちか
     ねない。――次項は この隔たりを埋めるという問題が来る。

 4. このとき キリストとは何であるか? キリストは 神と人間の間の媒介者であろうか? そのように考えた場合には キリストは 神と人間をつなぐと同時に それらを隔てる障壁の印でもある。

  ☆(う) 《障壁》≒《隔たり》は すでに理解済みであるのだが。次項
     についても そう言わねばならない。

 5. キリストという媒介が存在しているということは 神と人間を互いに分離した項として設定することを意味するからだ。

 6. 神が人間を 端的に赦した場合には 神を人間から隔てる絶対的な超越性は手付かずのままに残されることになっただろう。

  ☆(え) 《赦し》とは 人の逆らい――約束の破棄――に対するそれの
     ことである。

  ☆(お) 《端的に赦した場合》には 神と人との隔たりが 絶対という
     状態のままに遺ったであろうと言っている。端的にそのとおりであ
     る。――次項からは その赦し方が 手の込んだかたちになったし
    そのようになる必然性があったのだと説こうとしている。

 7. しかし キリストは このような意味での媒介者ではない。キリストは 神そのものだからである。

  ☆(か) つづく説明を聞こう。

 8. 十字架の上で 神そのものが死ぬのである。もう少し繊細な言い方に換えれば 十字架の上で死ぬことを通じて 神が人間であることが示されるのだ。

  ☆(き) このような説き方(解き方)だと 《死ぬ》のは 神なのか?
     人間なのか? が必ずしもはっきりしない。

 ・・・

 9. どういうことか? キリストが死んだということは 超越的な神(キリスト)が 内在的な人間だということであろう。

  ☆(く) 分かりづらい。もともと 神の子でありみづからも神であるキ
     リストが 肉(身と心との自然本性たる人)となったと想定してい
     るのだから この《内在的な人間》という規定は 必ずしも明瞭な
     説明ではないように思える。

 10. その結果は 何か? 人間は 信仰において 神と関係する。人間は 超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが その神は死んでしまい もはやそこにはいないのだから 人間の〔神に〕関係しようとする行為は 人間へと つまり信者たちへと還流してくるほかない。

  ☆(け) 分かりづらい。
    a. 神が死んだのか? 死んだのは 神か?

    b. 信仰とは 神とわれとのカカハリを言う。これは 中立の定義。

    c. 人間が《神と関係しようとする》のは 自由だが そもそも絶対
     の隔たりがあるゆえ だからどうなるというものではない。

    d. 仮りに神が死んだのだとしても・《もはやそこにいない》として
     も 絶対のかなたの神との関係が どうして《人間へと還流して来
     る》のだろう?

 11. このとき つまり神が人間に置き換えられたとき 神の場所に 原理的には 人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現することになるだろう。

  ☆(こ) 果たしてそうか? それが《原理的》か? 《死んだ》という
     行動の軌跡が 天から神が降りて来たことを証し そこに神の痕跡
     としてのごとき――次項にあるように――《聖霊》の場を実現する
     ことになる。のだろうか?

 12. この共同性を成り立たせる紐帯こそが キリスト教の言うところの《聖霊》(あるいはキリストの身体)であろう。

  ☆(さ) 果たしてどうか? ただの想像ではないのか?

  ☆(し) 想像ではないとしたらそれは むしろ初めに《絶対の隔たりな
     る神》を想定したその神とわれとの――《非思考》における――カ
     カハリが 依然として前提と成っていると見るのがよい。のではな
     いか?

  ☆(す) 《紐帯 ないし 共同性(また 共生)》は 非思考の庭とし
     てある。と想定される。

 13. 神の赦しが キリストの磔刑死という 迂遠な回路を必要としたのは 赦しが 人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を伴なわなくてはならないからではないか。

  ☆(せ) いったいどう成っているのか? キリストが死んだのだから
     地上には じんるい共同の大いなる連帯が 現実となって生まれた
     ということか?

 (大澤真幸:『逆接の民主主義――格闘する思想』 2008 pp.88-91)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2016-11-10 10:58:41

QNo.9253824

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質問者が選んだベストアンサー

真摯にキリストや神について思索する質問者さんの
姿勢に感銘を受けました。答えが見つかるといいですね。

「神」「聖霊」あるいは「魂」などについては、
「科学」や「論理」、「言葉」では説明しきれない
ところがあるからやっかいですね。

また、われわれには「人間」である、肉体と精神に
閉じ込められ、空間と時間に制限されている、という
存在としての限界もあります。だからすばらしいのですが。

「死」というものをどう定義するかにもよりますが、
ひとつには「人間、肉体を持っている形態の存在の
滅び、消滅」と考えることもできると思います。

人間は「死に」ます。個人という形作られた肉体は
時間とともに滅びます。

「イエス」という形をとった肉体も、十字架の上で
滅びました。

しかして、「霊」(あるいはエネルギー体でもなんでも
呼び名はおまかせしますが)は滅びません。カタチを
変えて存在しつづけます。

そのことを具体的にわかりやすく示したのが
「イエス」、のちに救世主の呼び名を付与された
「イエス・キリスト」であったわけです。

人間がただの人間、精神と肉体をもって滅び去る
だけの存在ではなく、実は霊によってつかさどられている
存在だという見本でした。

われわれが「誕生」から「死」までの間にこのことに
気づくかどうかはひとそれぞれで、気づかなくても
幸せならそれはそれでまったく問題ないのですが、

実は存在としてはこの「人生」もひとつの段階にすぎず、
超越した視点と感覚も持てる存在で、そのことに
気づくといろんなことがラクに思えます。

(せ)キリストが死んだから人類に連帯が生れたのか

その通りです。キリストが「死」という手本を見せ
それでも「生きている(霊として存在している)」ことを
示したので、人類がその手本から学んで「肉体を持った霊」で
あることに気づくと連帯できます。連帯というか、同じものから
生れた個別な存在なので、みんなが同じ、平等なものと
気づくことができます。

どうぞ思索をさらに深め、思索をつきぬけ、信仰も試み、
大いなる存在であることに気づかれますように。

投稿日時 - 2016-11-11 08:30:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 (せ)キリストが死んだから人類に連帯が生れたのか

 その通りです。・・・
 連帯というか、同じものから
 生れた個別な存在なので、みんなが同じ、平等なものと
 気づくことができます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここに感銘を受けました。

 その引用を省略したところの:
 ★ ~~~~~~~~~~~
 キリストが「死」という手本を見せ
 それでも「生きている(霊として存在している)」ことを
 示したので、
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ というくだりは なおまだ分かりにくい。あいまいさを残すのではないかとは 感じます。
 ので われわれにとって人としての《個別の存在が 実感として互いに同じである。対等である》と見るところに強く印象づけられました。



 冒頭から 過分のお褒めをいただき恐縮して読み継いで来たとき この箇所に強く響くものを感じました。





 ★ 「霊」(あるいはエネルギー体でもなんでも呼び名はおまかせしますが)
 ☆ の問題は やっかいですね。

 神学としてなら 神秘なるものをそのまま認めたかたちで 思索したり理論づけたリできるかも知れませんが 哲学となると なかなか合理的な説明が むつかしい。

 回答者さんも その点 柔軟で自由な発想を許容しつつのご議論になっているかと思います。
 哲学としての神論にとって あるべき姿だと思います。




 社会学者が その神論――ないし聖書の哲学的・社会学的な解釈――を自由に披露していて 好感が持てました。
 と同時に この大澤の《キリスト》論について 勝手ながら《いちゃもん》をつけてみたくもなったというわけでした。
 

 さらにさらに 日本人の神論やキリスト観が発展して行って欲しい。と思っています。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2016-11-11 10:57:36

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回答(6)

ANo.6

さっきいぅたことは占い師の胡散臭い話だと思ってくれ。
ただ私は観念を脳の個別の現象ではなく世界だととらえていて、そこでわけもわからず落下傘降下させられたいつもの仮面ライダー話だ。
私は私である。
これはもともとあんたが言い出したことだ。
それに沿った個人の信仰はまあいいだろう。
宗教は社会の礎となっているが、信仰の共同体が成立しないといえば偏った話だ。
私なりの視点で君の良く理解できる論説以外にも切り込んでいくよ。
商売だよ。

投稿日時 - 2016-11-12 20:17:03

お礼

 ★ 宗教は社会の礎となっているが、信仰の共同体が成立しないといえば偏った話だ。
 ☆ ここに ほんとうを言えば 引っ掛かりがあります。


 まづ第一に 《宗教》は わたしはみとめません。
 オシヘを信じなさい――そのまま鵜呑みにして受け容れなさい――と説くかぎりで。



 信仰のみです。

 ただしこれは 主観の問題であり 主観の問題でしかありません。




 これが わたしの基本です。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-11-12 20:57:54

ANo.5

観念世界の見聞録だよ。
アマテラスミッションで外国への軍事作戦で爆撃機に乗って落下傘降下した先に、信仰心が天をも貫く大樹に成長した聖なる地の、その木のたもとに崩れ落ち、骨が見える腐乱した体のまま教えを説くイエスの霊を見た。
あなたが死んだ神というのは正解に近いだろう。
この軍事作戦はアマテラスさんの軍事機密なのでそれ以降私が何をしたのかは話さない。
ただ私にはイエスさんが腐ったゴミにしか見えなくて、みっともなさに腹が立ったよ。

投稿日時 - 2016-11-11 21:42:27

お礼

 イエスが死んだから 大樹が育った――ということですか?


 でも 共同性――聖霊に満たされた人びとの集まり(つまり 教会)――のことを 大澤は言っているようです。


 わたしが言うのは 一人ひとりのことなんだということです。

 そのあとに 連帯が来ると。


 微妙ですが 違っているのではないかと。




 人が死ねば 骸骨になるのは当たり前です。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-11-11 21:54:18

ANo.3

1.一つの神と一人の人の1対1の関係だった。
2.イエスが、私が神だと言った。
  一人のイエスとそのほかの人の1対多の関係になった。
3.イエスが、死んだ。父と子が死んで聖霊が残った。
 教会・共同体にみんな集まった。 たくさんの人の多対多の関
 係になった。

第三者の審級対人の変化と順番をキリスト教、イエス磔で説明。
・1対1がたくさん。
・1対多がひとつ。
・多対多。
と本から取り出した1~13の文が読める。

参考URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4047101303

投稿日時 - 2016-11-10 23:09:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。次の論点に絞ります。

 ★ 3.イエスが、死んだ。父と子が死んで聖霊が残った。
 教会・共同体にみんな集まった。 たくさんの人の多対多の関
 係になった。

 ☆ まづ
 ★ イエスが死んだ。
 ☆ これは 事実でしょう。ナザレの人イエス。つまり 人間ですからね。

 ★ 父と子が死んで聖霊が残った。
 ☆ ん? 《父〔なる神〕》も死んだのですか? どうして?

 しかも 《子〔なる神〕》についても 死んだのかどうかは 分からないと思います。もともと生死からは自由なのですから。

 ★ 聖霊が残った。
 ☆ のではなく イエスが死んだあと〔復活もしたと書いてありますが〕 父なる神とともに 聖霊をこの世に送ると言っています。

 弟子たちや信徒たちのための《弁護者(パラクレートス)》としての聖霊であると。



 この聖霊を 大澤はそのまま《信徒たちの集まり(共同体ないし教会)》のこととして受け取っているようです。

 聖霊は 信徒たちそれぞれに送られて来るでしょうが そのように一人ひとりにとってのいのちのチカラであっても その集まりのことを聖霊だと言うのとは ちょっと違うと思います。


 そういった問題点を取り上げています。

投稿日時 - 2016-11-10 23:29:41

どこらへんが質問なのかわからないです

説明と質問を分けてみてはどうでしょう?

投稿日時 - 2016-11-10 17:04:50

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 1~13までが 大澤の文章です。

 (あ)~(せ)までが わたし質問者の注釈を兼ねた疑問・質問です。

 特に疑問文で書いているところが 質問です。



 そういう恰好ですので よろしくお願いします。

投稿日時 - 2016-11-10 17:33:32

ANo.1

大澤真幸の著書を信じるか否か・・だけだと思うが?

投稿日時 - 2016-11-10 12:08:37

お礼

 なんのこっちゃ?


 考えて! 考えたことなんだから ほかの人間も考えてみてください。






 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2016-11-10 12:48:51

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