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締切り済みの質問

一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

 1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。

 2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知(間違いだったと分かることもある)
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)

 3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

 4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

 5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。
 ――これが 一般絶対性である。

 6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。

 7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。

 8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。

 9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。



 ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

投稿日時 - 2017-03-04 17:59:23

QNo.9301051

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回答(7)

ANo.7

no.6の参考URLはno.4のリンクを張りたかったのです。しかしな
がら、誤ってno.3のリンクを張ってしまいました。誤りました。
すみませんでした。下記のようにno.6の参考URLを誤記訂正いた
します。
 誤 https://okwave.jp/qa/q9301051/a25937484.html (no.3のリンク)
 正 https://okwave.jp/qa/q9301051/a25938528.html (no.4のリンク)


質問者様は無限を不当に《無限》および無条件、無根拠と読み替
えています。参考URLの回答no.4のお礼コメント122~128行目よ
り引用します。下記引用部分に誤りがあります。
ーーーー引用しますーーーー
 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり元のま
 まの《無限》です。二分の一とか三分の一とかにはなりません
 《普遍》も《絶対》も 同じことになります。
ーーーー引用終わりーーーー
無限を二で割って、その商が二分の一にならないと言えません。
なぜなら、1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+・・・と無限に足し合わせた
ものを二で割ると二分の一になるからです。高校の数学IIIの無限
等比級数の知識です。だいたい日本人一般に受け入れられている
かもしれません。
質問者様は、《無限》を考えてみてください。と言いながら、無
限を不当に読み替えて《無限》を無条件に受け容れなさい(つま
り 信じなさい)と説いています。


no.6のお礼コメント48-50行目にて下記のようにあります。
https://okwave.jp/qa/q9301051/a25948022.html
ーーーー引用しますーーーー
 わたし・つまり一介の何の何某たる人間が 神を信じなさいと
 説くのではなく そうではなく 神とは 無条件にてあるもの
 だと規定しました。ということです。
ーーーー引用終わりーーーー
なぜ、普遍神とは 無条件にあるものだとの規定じゃないのでし
ょうか?普遍神というひとつの言葉での規定のはずです。なぜなら
no.5のお礼コメント12-13行目で下記のようにあるからです。
https://okwave.jp/qa/q9301051/a25945136.html
ーーーー引用しますーーーー
 つまりこの非知なるナゾは 普遍神というひとつの言葉で指し
 示すかたちで表わし得ます。
ーーーー引用終わりーーーー
ひとつの非知なるナゾを神と普遍神のふたつの言葉で規定してい
ます。または、非知なるナゾがふたつあり、一つ目を神、二つ目
が普遍神で規定している。または、一つ目を普遍神、二つ目を神
と規定していることになります。

参考URL:https://okwave.jp/qa/q9301051/a25938528.html

投稿日時 - 2017-03-29 20:31:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
 無限を二で割って、その商が二分の一にならないと言えません。
 なぜなら、1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+・・・と無限に足し合わせた
 ものを二で割ると二分の一になるからです。
 ~~~~~
 ☆ 残念ながらその無限は 経験事象として有限なる可能無限のことです。非知なる神については 真無限として 二で割っても 半分にはならないのです。

 たとえば 円周率は 3.14・・・というふうに 小数点以下が限りなく数値としてつづきます。ですが その円周率としての全体の値は 3と4との間におさまります。つまりは 有限の数です。

 無限つまり真無限の場合は 数値が特定できることがないのです。一を足しても 無限であり 一を引いてもやはり無限でありつづけます。




 ★ なぜ、普遍神とは 無条件にあるものだとの規定じゃないのでしょうか?
 ☆ そうですよ。普遍神とは・つまり普遍神と人間たるわれとの関係は――普遍神が 無限であり絶対であるからには―― 無条件に成り立っている。というものです。

 泣いても笑っても 無条件に成り立っています。それが 絶対というものです。




 ★ ~~~~~~~~
 ひとつの非知なるナゾを神と普遍神のふたつの言葉で規定してい
 ます。または、非知なるナゾがふたつあり、一つ目を神、二つ目
 が普遍神で規定している。または、一つ目を普遍神、二つ目を神
 と規定していることになります。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) 神について 《非知なるナゾ》と規定して想定する。つまり 《知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾ》として。

 (い) 非知として説明するなら その神は ひとつとして決まる。非知が 神であり 神であるなら 非知である。非知でないなら 神ではない。・・・とすれば 神は ひとつであり 普遍神であると規定することができる。


 非知であれば 可知(つまり 既知および未知)や不可知(知り得ないと証明されたもの)ではありません。
 可知と不可知であるなら 非知ではありません。

 つねに そのように定まります。

 
 

投稿日時 - 2017-03-29 21:53:37

ANo.6

参考URLの回答no.4のお礼コメント121行目より引用します。
ーーーー引用はじめーーーー
 ☆ 《絶対性》の代わりに 《無限》を考えてみてください
 。
ーーーー引用終わりーーーー
《無限》を考えてみました。
限とは、限るということです。○○に限る。条件を付けるという
事です。無とは、無いということです。ですから、《無限》とは
条件が無いということです。《無限》とは無条件という事です。

質問者様は、無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と
説いています。

参考URL:https://okwave.jp/qa/q9301051/a25937484.html

投稿日時 - 2017-03-26 19:25:28

お礼

 いいえ。違います。まづは ご回答をありがとうございます。

 ★ 《無限》とは無条件という事です。
 ☆ このみちびき出された結論は そのとおりだと思います。

 つまり・したがって 神は 無限であるなら 無条件の何かです。あるいは 無根拠と言ってもよいでしょう。

 つまり 確かにそうだとすれば一見すると:

 ★ 質問者様は、無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説いています。
 ☆ と見られても仕方がないのかも分かりません。

 問題は 無条件にてあるもの・あるいは無根拠にてあるもの これが 神のことだと分かったというひとつの判断だけだということです。




 どういうことか?


 たとえば わたしは無実だ。とか。かれは 信頼できる人間だ。とか。こういった事柄は 神のことではなく 相対的で移ろい行かざるを得ない経験事象についてのことです。

 つまり わたしを・かれを 無条件に信じなさいと言ったとすれば それは――神の問題ではないのだから―― おかしい。そんなことは 人の自由であり勝手である。となります。


 では 神が 無限であり 無根拠であり 無条件にてあるものだとなった場合 どういう対応をとるのか?


 どうでしょう?


 じつは 無条件に神とわれとの関係は すでに――人間がどうのこうの言う前に――成っている。ということです。


 ですから あとは人間は 神が有るとして受け容れるか。それとも 無いとして受け容れるか。この二つに一つの道しかないということ。――こういうことを物語っているということです。

 わたし・つまり一介の何の何某たる人間が 神を信じなさいと説くのではなく そうではなく 神とは 無条件にてあるものだと規定しました。ということです。


 どうでしょう? 分かっていただけましたでしょうか。

投稿日時 - 2017-03-26 19:42:12

ANo.5

確かに普遍神は《全体としてひとつなる普遍神》という意味を持ち そのような一定の意味を持つ言葉が どうして普遍普遍神のことを指し示すと言えるのか?

 と問うとき それは 言葉があくまでシルシであるからだと答えます。意味を持ちそれが一定の意味に限定されるとしても シルシとしては 指し示すものが その背後にあるという見方です。

 つまり 指で指し示す場合に ひとは指(=シルシそのもの)を見るのではなく 指の先を見て欲しいわけです。そういう仕組みになっています。

投稿日時 - 2017-03-23 19:23:05

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 同意してくれたのでしょうか?


 ★ 普遍普遍神
 ☆ は 普遍神と同じことです。普遍をいくつも並べた場合にも 同じです。

 そのような言葉が指し示すものは 指としての言葉=つまりシルシそのものではなく 指の先の《非知なるナゾ》のことなのですから。

 つまりこの非知なるナゾは 普遍神というひとつの言葉で指し示すかたちで表わし得ます。


 こう考えます。どうでしょう。

投稿日時 - 2017-03-23 22:06:31

ANo.4

下記はオシへですか?
ーーーー引用しますーーーー
 ――ブッダター(仏性)が 一切衆生にやどると想定されそう
 思われているように――
ーーーー引用終わりーーーー

ーーーー引用しますーーーー
 ちなみに 世の初めにいたというアメノミナカヌシなる神らは
  《独り神となりまして 身を隠しき》とも伝えられています
 。これは 普遍神のひとつのあり方として 《隠れたる神:デ
 ウス・アブスコンディトゥス》というふうにも見なされていま
 す。例の《沈黙》ですね。
ーーーー引用終わりーーー


相対的な話は関係ないんじゃないかな?絶対の話ですよね?
どうして、ということは と論を進めることができるのですか?
ーーーー引用はじめーーーー
 ということは 落ち着くところは次のようになるのではないか。
----引用終わりーーーー
ひとつなのか複数なのかわからないと思うな。質問者様はひとつ
ってことに決めた。根拠なく。ってことだとおもう。


アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)/ マハーワイローチャナ・タ
ターガタ(大日如来)が普遍神の呼び名だとしたら、呼び名の通
りの相手を指さないことになる。
普遍神は普遍神の呼び名ではない。
普遍神は《全体としてひとつなる普遍神》とその外の呼び名です
。普遍神は普遍普遍神の呼び名です。
そうすると、同様に普遍普遍神は普遍普遍普遍神の呼び名です。
そうすると、同様に普遍普遍普遍神は普遍普遍普遍普遍神の呼び
名です。
そうすると、同様に普遍普遍普遍普遍神は普遍普遍普遍普遍普遍
神の呼び名です。

普遍普遍神≠普遍普遍普遍神だし、普遍普遍普遍神≠普遍普遍普
遍普遍神だし、普遍普遍普遍普遍神≠普遍普遍神です。だって、
普遍さが違うからです。
少なくとも、普遍普遍神と普遍普遍普遍神と普遍普遍普遍普遍
神の3柱を心に抱いてみました。
《全体としてひとつなる普遍神》とその外と外の外や、《全体
としてひとつなる普遍神》とその外と外の外と外の外の外や、《
全体としてひとつなる普遍神》とその外と外の外と外の外の外と
外の外の外の外を考えることができないです。
《非思考の庭》が少なくとも3園成りました。

投稿日時 - 2017-03-17 20:43:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★  ~~~~~
 下記はオシへですか?
  ーーーー引用しますーーーー
   ――ブッダター(仏性)が 一切衆生にやどると想定されそう
   思われているように――
  ーーーー引用終わりーーーー
 ~~~~~
 ☆ 《一切衆生 悉有仏性》という――想定上の――命題。これは 日本人のあいだに一般に受け容れられていると思います。

 オシヘまたはその説明として出されたものでしょうが 《非知なる神の霊――つまりたとえば アートマン(霊我)やプネウマ(霊)など――》と同じ想定内容であると 一般に受け留められているものと思います。

 ★ ーーーー引用しますーーーー
 ちなみに 世の初めにいたというアメノミナカヌシなる神らは
  《独り神となりまして 身を隠しき》とも伝えられています
 。これは 普遍神のひとつのあり方として 《隠れたる神:デ
 ウス・アブスコンディトゥス》というふうにも見なされていま
 す。例の《沈黙》ですね。
 ーーーー引用終わりーーー
 ☆ これは 同じような例としての話を引き合いに出したものです。

 普遍神とその分身なる神々との関係について この事例は 《隠れている と 現われている》とのあり方に触れたものです。

 
 ★ ~~~~
 相対的な話は関係ないんじゃないかな? 絶対の話ですよね?
 どうして、ということは と論を進めることができるのですか?
  ーーーー引用はじめーーーー
   ということは 落ち着くところは次のようになるのではないか。
  ----引用終わりーーーー
 ひとつなのか複数なのかわからないと思うな。質問者様はひとつ
 ってことに決めた。根拠なく。ってことだとおもう。
 ~~~~~~~
 ☆ 《相対的な話》は あくまで普遍神の分身なる神々についてのことがらです。それを 絶対でひとつなる普遍神とくらべると 分かりやすいという程度の話です。

 ただし 一人ひとりの個人にとっての《個別における 神とわれとの関係》・つまり《非思考の庭》は ひとつであるか? 複数であるのではないか? にかんしては 確かにわたしは 《ひとつである》と捉えています。

 つまり 個人にあってその広義の主観の内なる非思考の庭が 誰れ彼れかまわずみんなにとって《ひとつ》であると――理論的に――見る理由は 互いに主体として異なるそれぞれ個別の人間にあっても その非思考の庭は 普遍神の霊をみなもととする限りで 個別の絶対性だと捉えるからです。



 では この個別絶対性は 果たして確かに・実際に《絶対性》であってすべて《ひとつ》であると言えるか?

 《一般絶対性》をわれわれ一人ひとりが受け容れている限りで・その理論にもとづく限り 個別の絶対性は 普遍神のもとに《ひとつ》だと帰結されるものと思います。

 証明はむつかしいでしょうね 実際の問題としては。しかも 《ひとつ ではない》という見方についても 証明はかなわないと思われます。

 いや。人間を見てみたまえ。一人ひとり 考えも性格も違っているのではないか? ――という物言いがついたら どうするか?

 それは すでに《一般絶対性》についても 普遍神なるひとつであるところを いろんな名前の神がいるのだし 無神論としても普遍神信仰が成り立っているという現実がある。つまり 理論と実際とは異なっている。

 このように反論して 《ひとつなる非思考の庭》説を擁護します。

 《良心》というのは おのおのわたしにあって常に現われているわけではありません。しかも 現われるなら おそらく人類にとって《ひとつの良心》なのであると考えられます。

 どういう事態のときにどんなかたちの良心が現われるか? それはまた いろんな事例があるのかも分かりません。





 ★ アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)/ マハーワイローチャナ・タ
 ターガタ(大日如来)が普遍神の呼び名だとしたら、呼び名の通
 りの相手を指さないことになる。
 ☆ これは 確かにアミターバは《無量光――絶対なる光――》という意味を持ち そのような一定の意味を持つ言葉が どうして普遍神のことを指し示すと言えるのか?

 と問うとき それは 言葉があくまでシルシであるからだと答えます。意味を持ちそれが一定の意味に限定されるとしても シルシとしては 指し示すものが その背後にあるという見方です。

 つまり 指で指し示す場合に ひとは指(=シルシそのもの)を見るのではなく 指の先を見て欲しいわけです。そういう仕組みになっています。


 ★ ~~~~~~~
 普遍神は普遍神の呼び名ではない。
 普遍神は《全体としてひとつなる普遍神》とその外の呼び名です
 。普遍神は普遍普遍神の呼び名です。
 そうすると、同様に普遍普遍神は普遍普遍普遍神の呼び名です。
 そうすると、同様に普遍普遍普遍神は普遍普遍普遍普遍神の呼び
 名です。
 そうすると、同様に普遍普遍普遍普遍神は普遍普遍普遍普遍普遍
 神の呼び名です。

 普遍普遍神≠普遍普遍普遍神だし、普遍普遍普遍神≠普遍普遍普
 遍普遍神だし、普遍普遍普遍普遍神≠普遍普遍神です。だって、
 普遍さが違うからです。
 少なくとも、普遍普遍神と普遍普遍普遍神と普遍普遍普遍普遍
 神の3柱を心に抱いてみました。
 《全体としてひとつなる普遍神》とその外と外の外や、《全体
 としてひとつなる普遍神》とその外と外の外と外の外の外や、《
 全体としてひとつなる普遍神》とその外と外の外と外の外の外と
 外の外の外の外を考えることができないです。
 《非思考の庭》が少なくとも3園成りました。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《絶対性》の代わりに 《無限》を考えてみてください。

 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり元のままの《無限》です。

 二分の一とか三分の一とかにはなりません。

 《普遍》も《絶対》も 同じことになります。

 普遍神は すべての全体としてのひとつです。そして ですから 内と外という概念にもなじみません。
 或る普遍神があって ほかに別の普遍神があるといった相対的な数のあり方には なじみません。


 《非思考の庭》も 理論じょう 《絶対・普遍・無限》です。

 ただ ミクロコスモスとしてあくまで一個の人間ごとに成る庭です。そして一個の人間は ほかの一個の人間とは 信教・良心の自由や表現の自由の主体として互いに別々です。

 ですから 実際に現実に《ひとつの非思考の庭》であるのか? と問うならば それは 理論上そうであるという答えになります。

 実際じょうは それでも《ひとつではない》という見方が証明されてただしいとなるかと言えば そういうことには――理論じょう絶対に――ならない。ということだと見ています。どうでしょうか。

投稿日時 - 2017-03-17 22:00:12

ANo.3

参考URLの質問_教えを改訂したいなら(予備質問)のno.3のお
礼コメントの217行目から233行目を下記に引用いたします。た
だし、改行、読点を勝手に削除しています。ごめんなさい。句点
は元からないです。この部分本質問の内容と対立します。
ーーーー引用しますーーーー
 此処で言う達と言う表記ですが
 表したくないところではありますが
 改めて示せば人が称す所の神達の事ですよ
 勿論GODも此の内ですよ
ーーーー引用終わりーーーー

質問本文には下記のようにあります。改行を勝手に変えました。
ごめんなさい。
ーーーー引用しますーーーー
 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信
 仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定さ
 れるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであ
 るかが 人間には分からないからである。
ーーーー引用おわりーーーー

最上の引用では、達と複数と想定していて、質問者様はひとつと
想定しています。

分からないのは4点です。
 1.最上の引用が言う、人が称す所の、神達の事とGODは普遍神
  の呼び名ですか?
 2.もし、普遍神の呼び名でないとしたら、どうして最上の引用
  部を書いた質問者に《非思考の庭》が成っていないと分かり
  ますか?
 3.もし、普遍神の呼び名だとしたら、神達の事とあるので、普
  遍神は複数柱在ることになりますか?
 4.《非思考の庭》が同時に複数成ることはどうして起こらない
  と言えるのでしょうか?

参考URL:http://okwave.jp/qa/q9304414/a25934911.html

投稿日時 - 2017-03-17 00:24:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ 《神は普遍神としてひとつであり これを表わす言葉としては 人や民族ごとにいろいろである》 このことは お分かりいただけたでしょうか。

 さて:
 ★  1.最上の引用が言う、人が称す所の、神達の事とGODは普遍神
  の呼び名ですか?
 ☆ そうです。複数の場合には 普遍神の分身として理解します。



 ★ 2.もし、普遍神の呼び名でないとしたら、どうして最上の引用
  部を書いた質問者に《非思考の庭》が成っていないと分かり
  ますか?
 ☆ 普遍神の呼び名〔の違い〕です。

 非思考の庭は けっきょく――ブッダター(仏性)が 一切衆生にやどると想定されそう思われているように―― 潜在的には誰もに生まれつきの自然本性〔 + α〕としてそなわっていると見ます。

 普遍神を―― 一定の名で――心に受け容れたとき非思考の庭が《成る》というのは 精確に言えば 潜在していたその神の霊(ないし 非思考の庭)を自覚するという意味になると思います。



 ★ 3.もし、普遍神の呼び名だとしたら、神達の事とあるので、普
  遍神は複数柱在ることになりますか?
 ☆ やほよろづ(八百万)の神々という場合などのことだと思いますが それらは 普遍神の分身として捉えます。

 ちなみに 世の初めにいたというアメノミナカヌシなる神らは 《独り神となりまして 身を隠しき》とも伝えられています。これは 普遍神のひとつのあり方として 《隠れたる神:デウス・アブスコンディトゥス》というふうにも見なされています。例の《沈黙》ですね。



 ★ 4.《非思考の庭》が同時に複数成ることはどうして起こらない
  と言えるのでしょうか?
 ☆ 仮りに《複数 成る》とした場合 それでもじつは《非思考》なのです。思考に非ず。つまり いくら思考しても想像したとしても だからどう成るということは 分かりません。

 普遍神がひとつであると想定したのなら 一人ひとりの人間にとって――神とわれとの関係において―― その信仰として成るのは 《ひとつの》非思考の庭だと捉えられます。

 もうひとつ言えることは 《ひとつ》という表現は おのれが一人の存在であり なれ(汝)がやはり一人の存在であるといったふうに単位としての相対的な数のことを一般には表わします。

 表わしますが 別の用法もあります。神やその霊について言う場合には むしろ《全体としてのひとつ》という意味に採るとよいはずです。

 《一同の者》といったふうに言うのは 包括概念です。この場合には ほかにも別に《一同の者》なる集団がいますから やはり相対的な数としての《一》ではあるのですが 集合を言うという意味で《全体としての一》を表わし得ます。


 つまり 《全体としてひとつなる普遍神》があり その呼び名として いくつかの名前や分身に分かれる。のだと思います。







 《非思考の庭》が 複数において成り得るのではないか?

 この問いについて さらに考えますと。
 人間は―― 一人ひとりに《信教・良心の自由》があると見なされているように―― 相対的なものですが社会的に独立した存在であり主体だと捉えられています。

 ということは 《神とわれとの関係》は それこそ非思考と言うかぎりでなおさら ほかの人とのあいだで同じなのか・違うのかは 分かりません。はっきりしません。勝手な推測や想像しかできません。

 つまり 非思考の庭が 複数において成るかということについても判断できません。



 
 ということは 落ち着くところは次のようになるのではないか。

 普遍神は ひとつである。

 普遍神と――個別の――われとの関係は そこに非思考の庭が成るというふうに捉える。

 《個別の》非思考の庭だというのに それは ひとつだと言えるか? いくつかあり得るのではないか?

 どうでしょう? どうなりましょうか。

 すなぼさん どうお考えになりますか?

投稿日時 - 2017-03-17 10:14:11

ANo.2

>非経験の場
>非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。

と定義して、そこから一歩も出ようとしていない以上、「謎な事は謎である」と言っているだけであって何も言っていないに等しく、単なる思考停止をしているに過ぎない。
 その様な考えは結論を出す事を拒否しているだけのものなのであるから、考えるだけ無駄ある。

投稿日時 - 2017-03-05 05:03:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
  >非経験の場
  >非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。

 と定義して
 ~~~~~~~~
 ☆ と受け取ったと言っていますが その中身については いっさい哲学として取り上げるべきことは 言っていません。


 理由説明をともなった批判と思われるところがないのです。

 

 ★ そこ(=定義)から一歩も出ようとしていない
 ☆ 定義にもとづき理論を構築し さらに展開するのは 当たり前のことです。《一歩も出ようとしていない》とは どういうことを言うのか?

 ★ そこ(=定義)から一歩も出ようとしていない以上、「謎な事は謎である」と言っているだけであって
 ☆ 可知(既知および未知)と不可知――これらはみな けっきょくその対象が 経験事象である――と一線を画すところの《非知》を ナゾと言っています。

 その上でなら:
 ★ 「謎な事は謎である」と言って
 ☆ もまったく構いません。



 ★ 結論を出す事を拒否している
 ☆ さきほど《理論を展開する》と言いましたが じっさいにはここでは やっておりません。じつは このあと 《特殊絶対性》なる仮説をつけそえなければなりません。

 一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実となるのか? これにこたえる必要があります。

 普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。

 要するに:

  名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない
  有る神のほかに 無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。
  普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――いわゆる信仰――は そこから得られる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他人に説く宗教とは 何の関係もない。

 さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。
 ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出るが その根幹としての内容です。




 まぁ いまのところは神論としての基本にかんして これ以外のことは:
 ★ 結論を出す事を拒否している
 ☆ と見られても仕方ないでしょう。

投稿日時 - 2017-03-05 09:26:40

ANo.1

全部理解、
できませんが
「阿弥陀」
親鸞があなたに答えますよ。

投稿日時 - 2017-03-04 19:45:29

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ええ。すでに答えは もらっていますよ。

 《義無きを以って義とす》。(親鸞の末燈抄でしたか)。



 あれっと思ったところなど ありましたら 言ってください。

投稿日時 - 2017-03-04 19:51:21

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