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解決済みの質問

江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの

江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの財がある藩と同じ石高の藩でも貧富の差があった。

要するに藩主は国を欺き脱税していた藩には財力があった。

10万石の領地を持つ藩で金持ちの藩主がいたが、国に所有地で取れる米の量は10万石とお上の国に申告し、江戸幕府の視察団が来ても田んぼは確かに10万石しか取れない土地であったので視察団はそのまま帰っていった。

では、10万石の大名はどのように国の目を欺き脱税していたかと言うと、山の表面に米田畑を作り、裏面に売れる木を植えていたのである。

要するに副業で林業をやって木を国を通さずに直接売買して副収入を得ていたのである。

という話を聞いて、昔の藩主も脱税してたのか。

それで金持ちの藩が存在していた理由が分かった気がした。

高い銃を大量に買える財力がなぜか領土が小さい藩に存在していた。

大きい広い土地を持つ藩主は土地も広いが国に納める税金も高かったので不作のときに大きく蓄えを減らし、領土の大きさが逆に財政を悪化させていたのだ。

で、江戸幕府も小さい藩主なのに羽振りが良いので、直接藩主になぜお前の藩は不作が続いているのに人々は餓死もせずにピンピンしているのだと聞いた。

実は米が不作でも林業で現金収入があったので米を買って村人に配っていたので栄養失調にならないのでピンピンしていたのだが、さすがに脱税してるお金があって財力に余力があるからとは言えないので、江戸幕府は結局、どういうカラクリでその藩だけ疫病に掛からないのか知りたくても真実は聞けなかったというお話。

これ以外の脱税話を知ってたら教えてください。

多分、他の藩も脱税していたと思う。

投稿日時 - 2017-06-09 16:41:05

QNo.9339193

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

blackkigyou2017 さん、こんにちは。


10万石ある領地から領主が年貢が取れるのは4万石程度です。そのうち、殿様の分はおそらく、実収4000石程度でしょう。これで参勤交代や、臨時出費を賄っていたのです。家来の数は小者を入れると、3000人から4000人位と考えてください。このまま江戸時代は250年以上続くわけですが、物価はやはり上昇していきましたから、江戸時代の最初の100年間くらいはお米の増産のために新田を作りました。10万石しか取れない領地が15万石(内高)になるという事もありました。この段階で元禄期に入ります。コメの生産量は江戸初期の約倍の3000万石を超えていました。幕府は元文の頃まではコメの増産体制でしたが、間もなくコメが余ったり、少なかったりするという事が起きました。コメ相場が不安定になったのです。何十万石を領する大藩ではコメばかりではなく、江戸の人たちだって人間ですから、衣食住がないと生活できない。だからいろんな生活に必要な特産物の方がよく江戸では売れるという事が分かりましたので、地域の特性を生かした特産物に力を入れるようになりました。例えば薩摩の芋とか砂糖、尾張藩の木材、機種藩のミカン、加賀前田の漆器とか、特殊なのは長州の(もとでは1万石のコメからです。)海運業や金融なんていうのもありました。そしてこれを藩の専売制にすることで法人化します。幕府も表高を内高基準にするよう藩から求めない限り、内高のままでしたから、豊かな藩は豊かな藩へ、貧乏な藩は貧乏な藩になりました(ほとんどないけど)。もともと、工事手伝いとか、参勤交代位しか幕府からの賦役はないから、跡継ぎの問題とか、江戸市中、天領、他藩領内での藩士の振る舞いに気を付ければ、後はほとんど大丈夫ですからね。


長州藩撫育方
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E5%B0%B1

投稿日時 - 2017-06-09 17:39:24

お礼

ありがとうございます

投稿日時 - 2017-06-09 20:23:58

ANo.1

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回答(4)

ANo.4

いろいろ誤解があるように思います。

>では、10万石の大名はどのように国の目を欺き脱税していたかと言うと、山の表面に米田畑を作り、裏面に売れる木を植えていたのである。

まず相手は国ではなく幕府等ですね。
そして藩・諸大名に対して政権は基本的に石高(貫高)に対して軍役等を課しますが、基本的には課税はしません。
(上米の制等例外あり)
まあとはいえ表高が高ければ軍役の出費がかさむので、国力にたいして表高が高ければ困窮するのは同じですね。
そして課税という表現は不適切ですが、賦課の対象となるのは田畑です。
商業・鉱工業は含まれて居ません。
ですから>副業で林業をやって木を国を通さずに直接売買して副収入を得ていたのである
こういったことにはそもそも幕府の許可も要りません。
ただし鉱業のうち重要な金山銀山は幕府直轄としています。
なお軍役等とは、実際の有事の出兵、土木工事、参勤交代などです。江戸時代は参勤交代の出費が諸藩の財政に重くのしかかりました。

ですからだますだまさないの範疇ではなく、自ずから大名にも貧富の差は存在しました。
戦国時代であれば金山を保有した駿河今川、銀山や貿易で栄えた山口の大内家が豊かな大名の代表例でしょうね。
江戸時代であれば琉球を服属させ黒砂糖で儲けた薩摩と、北前舟の港をもった諸藩が比較的豊かです。

次に田畑の話ですが、豊臣政権は全国の検地を推し進め、実際の田畑の生産力と諸大名の軍役の賦課を厳しく一致させるのに勤めました。
ですが江戸時代は実際の生産力と江戸幕府に納める帳簿(建前)上の石高の一致をまったく求めていません。
ですから時代を経るごとに新田開発が進み、現実の生産力と建前上の石高は乖離が進んでいきます。
前者を実高、後者は表高といいます。
ですがこれもズルでもなんでもなく江戸時代ではあたりまえのことです。

そして大名側からの申請で表高を上げることができます。
それによりもちろん軍役も増すのですが、大名としての江戸城内での序列があがります。
沼田真田(分家)藩などは、身の丈に合わない表高としたことで結局滅んでいます。

>高い銃を大量に買える財力がなぜか領土が小さい藩に存在していた。
これは庄内藩のことでしょうね。小さな藩なのに幕末大量のスナイドル銃で武装したことで有名です。
確かに庄内藩は表高13万石に対して実高20万石と経済的に余裕があるのでしょうが、これは北前舟で儲けていた商人本間家が莫大な献金をしたためとも言われています。

投稿日時 - 2017-06-09 20:39:05

ANo.3

えーとですね、まず各藩は徳川幕府に対して税金つうのは払っていません。というか、そんなものがありません。幕府から各藩に対して「お前は何万石の藩だからこれだけの年貢を納めろ」というのは一切なかったのです。
徳川幕府の収入は、全国各地にある直轄領(300万石くらいだったかな?)からの直接収入で賄っていました。天明時代に惣戸税というのが導入されたのですが、田村意次の失脚でボツになりました。

藩というのは、独立国家です。今でも日本がどこかの国に税金を納めるとかはないですよね。各藩は司法権も行政権も独立していたので、幕府は直接は内政に干渉できなかったのです。

税が存在しないのだから、脱税もありません。

その代わり、まず各藩には参勤交代の義務があります。これが結構な出費となります。薩摩藩なんか、片道だけで1万5千両もかかったそうですよ。
また幕府から「お前の藩は何万石」とされるとそれ相応の家の格というのを保たないといけませんでした。これも何かとお金がかかります。五万石の大名と二十万石の大名では格が違うので大きな藩にはそれ相応の負担が求められるのです。

加えて、各藩はそれぞれ江戸幕府から様々な普請を命じられることがありました。これは「ありがたき幸せ」といって引き受けないといけなかったのです。例えばお城の建設や補修であり、土木工事だったりします。大名は断ることができません。
この普請を命じられるのが各藩にとっては戦々恐々でした。江戸時代中期の宝暦時代に、薩摩藩は幕府から何と木曽川の治水普請を命じられます。それでなくても当時66万両の借金があった薩摩藩にとって、日本一の暴れ川である木曽川の治水工事なんていったいいくらの出費になるか想像もつかないものでした。ま、はっきりいって幕府が薩摩藩を潰しにきたのですけどね。この歴史に残る難工事のために薩摩藩は莫大な借金を抱え、51名の藩士が抗議の自害をし、33名が病死。担当の家老だった平田靱負は工事を見届けると自害、藩主の島津重年もよほど心労だったのか、工事が終わるとまるでそれを見届けるかのように27歳!という若さで世を去ってしまうほどでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

松前藩みたいなごく一部の例外を除けば、江戸時代の藩というのはどこも借金まみれで「よくこんなので経営破綻しなかったもんだな」と思うような財政状況でしたよ。

蛇足:ちなみに江戸時代は商人に対しても今の法人税や事業税に該当するものはありませんでした。だから江戸時代の豪商というのはその名の通りにものすごいお金持ちだったのです。ただし、大阪の淀屋のように「その贅沢目に余る」という無茶苦茶な理由で全財産ボッシュートという目に遭うこともありました。

投稿日時 - 2017-06-09 20:35:33

ANo.2

blackkigyou2017 さん、こんにちは。


ごめんなさい。書き落としがありました。実は江戸時代前半期(100年)に作った借金のことを大阪の商人(蔵元、掛屋、両替商)に肩代わりさせていました。これを大名貸しといっていました。少なくとも表高の半分、多ければ、10年分に相当する借金があったそうです。利息は例の特産物を撃ったり駅から出したといわれますが、それでも返却には程遠かったようです。だから近世の大名は最初こそはぶりはいいものの、次第に質素倹約を旨としました。やはり、大名は意外とお金がないんですね。

大名貸し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D%E8%B2%B8

投稿日時 - 2017-06-09 17:55:10

お礼

ありがとうございます

投稿日時 - 2017-06-09 20:22:35

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