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江戸時代以前の日本人の世界観

古墳飛鳥時代には朝鮮半島から多くの人間が畿内に移住しましたし、遣隋使や遣唐使もありましたから、当時やそれ以後の暫くの間、日本人は、世界には日本以外に朝鮮や中国のような国や地域があると理解していたと思います。
天平時代でしたか、てっきり日本人の僧だと思っていたのに、インド人が日本に帰化した僧であったことも知って驚きました。今その僧の名を忘れてしまいましたが、ひょっとしてインドくらいまでは世界として理解していたのかも知れません。
欧米人が幕末に日本に来るまでは、日本人は世界をどのように理解していたのでしょうか?中国以西のことはどう考えていたのでしょうか?正倉院にはペルシャの物もあるそうですから、中国の西には別の国があると思っていたのでしょうか? 皇族や貴族ではなく、一般人はどう思っていたのでしょうか? 一般人にとっては中国以西は水平線の向こうの感覚で一切分からないというのが正直な感覚だったでしょうか?
何かの書物に記述はありませんか?
よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2019-12-07 21:56:14

QNo.9687459

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回答(6)

ANo.6

夏目漱石の「坊っちゃん」の中で、主人公が「西の方に行く」と清に話したら、「小田原ですか?」と聞き返すシーンがあります。当時の江戸っ子にとって小田原といえばもう西の果てのような感覚だったのでしょう。その先は「箱根の関所」ですからあながち間違ってはいなかったはずです。

投稿日時 - 2019-12-08 16:32:57

ANo.5

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161121-00000004-wordleaf-soci&p=1

幕末のきっかけになったのはご存知「黒船の来航」ですが、これはその黒船を伝える「速報かわら版」です。来航したその年のうちに発行され、最大級のヒットとなりました。
驚くべきは、その詳細です。船の全長や外輪の大きさ、搭載する大砲の数や乗組員の数まで紹介しています。つまりこれを発行した人たちは以前から「外国にはこういう船があるよ」というのを知っていたのです。ちゃんとどこかからカタログデータを入手していた。
更に、左上には世界情勢についての紹介もあります。重要なのは「読者はこの記事が理解できる基礎知識があった」ということです。そしてこれが江戸出版史上において最大級の販売を記録したということは、世間の関心もそれだけ高かったということです。みんなワクワクしたんですよ、まるで宇宙船を見るような感じでね。

江戸時代中期の安永時代にあの「解体新書」が発行されてから、日本でも翻訳ブームが起きて沢山の外国の書籍が翻訳されました。なので解体新書以降は意外に日本の知識人の間では欧米の事情は知っていたというのはあります。大黒屋光太夫のように、生の海外事情を知った人が帰国してくるということも稀にありました。とはいえ、蘭学を「蛮学」と呼ぶド右翼の人も少なからずいたことはいうまでもありません。

けれども立場が違えば事情も違って、幕末に徳川家茂の嫁になった和宮内親王は自分が生まれた家から外に出たことがなかったので「関東は鬼が住む場所だから嫌だ」と泣いて嫌がったという話は有名です。当時の公家さんにとっては世界はせいぜい畿内くらいで、そこから外はもう異界、異人の住む魔境だったのでしょう。田舎のヤンキーが外国はアメリカと中国くらいしか知らないのと同じでしょうね。

投稿日時 - 2019-12-08 12:29:26

ANo.4

江戸時代以前と一口に言っても、時代ごとに大きな差があります。

奈良時代には、ご指摘のように正倉院の宝物の中には現在のイランのあたりで作られたと考えられるものもありますし、当時の唐は「世界帝国」的な大国でしたから、遣唐使などを通じて外国に関する知識も入っていたと考えられます。

753年の唐の賀正の儀式の際、新羅との席次をめぐって日本側が唐にクレームをつけ、日本を上位に改めさせたという有名なエピソードがありますが、この儀式で席次の上位には「大食」という国があります。この大食国イスラム教を信奉する西方の国で、この国名は日本の史書「続日本紀」にも登場しますから、少なくとも当時の日本のエリートたちには、西方のこのあたり(イランやアラビア)に、大国があるという認識はあったのでしょう。ただし庶民にまでそうした知識があったとは考えにくいですね。

ポルトガル人の来航以降、いわゆる「鎖国」までの時代には、鉄砲という先進技術があっという間に普及し、キリスト教も広がったことからもわかるように海外への関心は高く、このころには庶民の間にもヨーロッパの国も含めてある程度の知識はあったと考えられます。宣教師が作ったいわゆる「キリシタン版」と呼ばれる活版印刷の出版物のなかには宗教書だけでなく、イソップ物語の翻訳もあり(日本における西洋文学の翻訳の嚆矢)、のちに仮名草紙の「伊曾保物語」も作られました。

この伊曾保物語の冒頭には、「えうらうはのうち、ひりしやの國とろやと云所に、あもうにやといふ里あり。その里にいそほといふ人ありけり。」とありますが、「えうらうは」というのは「ヨーロッパ」のことです。

この時代に実際にヨーロッパへ渡航した人は、支倉常長や天正の少年使節などごくごく限られた「エリート」だったでしょうけれど、東南アジアには「日本人町」があったと伝えられるくらいですし、商人や宣教師などアジア系以外の外国人を見る機会も、貿易港や教会があった町では珍しくはなかったでしょう。

江戸時代になって、西洋との交易が長崎の出島に限られるようになって、西洋などの外国に関する庶民レベルの認識はむしろ低下したのではないかと考えます。もちろん蘭学に志した人などは例外ですし、幕末になれば状況は一変しますが。

投稿日時 - 2019-12-08 07:20:33

ANo.3

一部の知識人を除けば、日本国外のことなど一切知らなかったはずです。日本全土(但し今の北海道や沖縄は含まれない)だけを支配したにすぎないのに「天下統一」などと大袈裟な表現をしていたのが何よりの証拠で、ましてや庶民にとって「国」というのは武蔵の国であり、三河の国であり、今で言う都道府県レベルかそれ以下の面積の地域です。そもそも、武士や旅芸人や商人を除けば生まれた土地から一歩も出ずに一生を過ごす人が大半で、その範囲はせいぜい10キロ四方程度にすぎませんでした。明治の大合併以前の一つの村や町、宿の面積は非常に狭く、移動手段といえば徒歩しかなかった時代ですから何時間もかけて移動することなど不可能だったからです。

投稿日時 - 2019-12-08 05:02:02

ANo.2

唐天竺と言う言葉があるくらいですから,海の向こうには中国がり,その先にはインドがあることくらいは認識していたでしょう。また朝鮮からは通信使が来ていましたからそれもわかっていました。
さらに長崎にはオランダ人がいましたし,隠れキリシタンもいましたから,もっと遠い国があることを知っていた人も九州には多かったでしょう。

投稿日時 - 2019-12-08 00:11:56

ANo.1

>日本人は、世界には日本以外に朝鮮や中国のような国や地域があると理解していたと思います。

国という認識か否かは分かりませんが、海の向こうに別の国がある事は理解していたでしようね。
日本海側は、太平洋・瀬戸内海側と違って大陸に早くから関心を持っていた様です。

>日本人の僧だと思っていたのに、インド人が日本に帰化した僧であったことも知って驚きました。

西国33カ所巡礼では、インドの仙人が開山したというお寺が多いですね。
法道仙人開山の25番播州清水寺・26番一乗寺・番外花山院など。

>インドくらいまでは世界として理解していたのかも知れません。

仏教は、天竺(インド)発祥という事を既に理解していました。

>日本人は世界をどのように理解していたのでしょうか?

実は、既にアジアからヨーロッパまでは把握していたのです。
キリスト教伝来時に、宣教師は「世界地図・地球儀」を信長に提供していますよね。
同時に、奴隷として黒人を信長に献上しています。
以降、堺の商人・博多の商人が東南アジアに活発に交流しています。
地方でも、戦国大名(大友宗麟など)がキリスト教布教容認の代わりに海外貿易を行っています。
鎖国時代(明治政府が作った言葉で、江戸時代には鎖国と言う言葉は無い)でも、出島経由で世界情勢を把握していました。
ポルトガル・スペインは入国できない事になっていますが、オランダ商館にはオランダ人だけでなくイギリス人・ドイツ人など各国の商人・外交官・知識人が多くいました。
ペリーが日本に来る事も、1年前からオランド国王親書で幕府は把握していました。
ですから、ペリー来航で日本中が大騒ぎになった!は「明治新政府の幕府批判目的政策」に過ぎません。
実際、1700年代の日本を旅行(出島から江戸まで)したイギリス人の随筆も残っています。

>皇族や貴族ではなく、一般人はどう思っていたのでしょうか?

残念ながら、皇族・貴族は国際情勢は無関心でした。
そもそも、情報が入りませんからね。
ですから、幕府が通商条約を結んだことに激怒して「討幕」を考えたのです。
幕府(井伊直弼)としては、アヘン戦争の清国敗北・香港島割譲など外国勢の武力を知っていました。
※井伊直弼の決断がなければ、列強の植民地になっていたかも?
皇族・貴族がアヘン戦争を知っていれば、「攘夷攘夷」と絶叫しなかったでしよう。
一般市民は、既にロシア・朝鮮・中国や・フィリピンマカオなど東南アジアは理解していた様です。
「三国一の花嫁」は、日本・中国・インドをさす言葉ですから・・・。

>何かの書物に記述はありませんか?

ここで書物を書く事は出来ませんが・・・。
室町時代以降の古文書は、案外残っています。
先に書いた通り「鎖国」という言葉は、明治政府が「開国」という言葉で文明開化で旧幕府政府よりも政策が進んでいる事を伝える目的で誕生した言葉です。
古本屋に行けば、時々安価で購入する事が出来ますよ。^^;

投稿日時 - 2019-12-07 22:40:30

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