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徳川(一橋)宗尹の生母・深心院 に関する事での質問

徳川(一橋)宗尹の生母・深心院に関する事での質問があります。

(↓)下記の URL の Wikipedia のページによれば、8代将軍・徳川吉宗の側室で、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の生母である 深心院(俗名は梅(うめ)、久)は、

深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))

という様に、深心院(俗名は梅(うめ)、久)の生年は、元禄13年(1700年)になっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2
深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))は、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。俗名は梅(うめ)、久。父は谷口正次。院号が深心院。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2
さらにまた、(↑)上記のURL の Wikipedia のページによれば、深心院の “ 生涯” の部分で、

元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。

となっています。

そこで、質問があります。

深心院は、生年が “元禄13年(1700年)” で、「元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。」という事は、“わずか4歳で、和歌山城に奉公に上がって、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。” という事になるのですが、

“わずか 4歳で、和歌山城に奉公に上がって、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始める。” などという事が可能だったのでしょうか?

どういった風(様)な事だったのかを教えてください。



<参考 URL>
【深心院】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2
深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))は、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。俗名は梅(うめ)、久。父は谷口正次。院号が深心院。

生涯
元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。

その後、紀州藩を継いだ吉宗の寵愛を受け、吉宗が8代将軍になると紀州藩邸から江戸城大奥に移り、享保4年(1719年)に源三(夭折)を産んだ。次いで享保6年(1721年)に宗尹を産んだが、同年に22歳で病没した。上野寛永寺凌雲院に埋葬された。戒名は深心院慈潭性水大姉。

投稿日時 - 2019-12-25 15:34:29

QNo.9694248

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xwyzmさん、こんばんは。

おそらく、最初は本当の女中としての扱いではなかったと思います。これは幼いうちは浄円院が親代わりになって彼女を教育指導したんだと思います。詳細は県立レベルの図書館で紀州藩関係の史料にあたるしかないと思います。

投稿日時 - 2019-12-25 18:17:37

お礼

御回答ありがとうございました。

そういう事だったのですね。

よくわかりました。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2019-12-26 08:16:51

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